『思慕のウラハラ 世迷いごと。 3』2005.03.31

 



 俺だけだ。
 あんなクソ意地悪い野郎と、死ぬまで一緒にいたい、なんて考えてる男は。

 あいつの唯一になりたい、って思ってた。

 俺が死んだら、あいつも死ぬって位、必要な存在に、なりたい。
 ・・・・・あいつの、姉ちゃん以上になりたい。
 ずっと、そう思ってたんだ。


 ・・・・冷静に見える碧の瞳が、実は直情的でワガママだって知ってんのは俺だけだ。
 ツラッとしてるくせに、実は身体の中を流れる血が、かなり熱いってコト知ってんのも、たぶん俺だけだ。
 あの白い肌の下に、意外としっかり筋肉がついてることを知ってんのも、俺だけ・・・

 だった、筈なんだ。





          ――― 思慕のウラハラ 世迷いごと。 3 ―――





 ホテルの一室の中。
 似た男はやめよう、と決めていたにも拘らず、八戒は頬に傷のある、背の高い、優しい男と、ベッドの上で重なり合っていた。 男の手はこういう行為に慣れていないようで、肌をまさぐる手つきがたどたどしい。
 やがてその手が肌から離れ、握り締められる。 横たわる八戒の両側にこぶしを握ったままの腕を突いて、まるで祈るように頭を垂れ、男は吐き出すように言った。

「ああ、くそ!」

 左頬に一筋傷のある男は、大きく息を吐いて身体を起こし、顔の上半分を、骨ばった片手で覆う。

「悪い。 ダメみたいだ。」

 落ち込み気味に言う男に、八戒も小さく息を吐き、嫌味のない笑みを返す。

「でも、さっきはアンタに欲情したんだ。 そんなの久しぶりだったから、いけると思ったんだが。」
「それほどに、あの方が大事なんですね?」
「・・・・そういう事に、なるのかな、やっぱり。」
「ずっと、・・・・・そうなんですか?」
「勃たなくなったのは、・・・そうだな、この傷、ついてからかな。」

 身体を離し、ベッドに倒れこむようにして、男は枕に顔を突っ込んだ。
 逆に八戒が身を起し、男の背を見下ろす。

「相手が女性でも?」
「オンナは元々ダメなんだ。」

 枕ごしに、くぐもった声が聞こえ、八戒も思わず神妙な顔つきになった。

「なるほど。」
「アンタ、脱いだら意外と筋肉質なんだな。」
「イメージと違いました?」
「かなり。」
「あの方は、華奢な感じですもんね。」
「アンタは?」
「え?」
「オレに欲情したか? そいつに似てるんだろ、オレ。」
「あんな風に誘っておいてナンですけど、正直言うと、・・・それは無いです。 スミマセン。」
「じゃあ、お互い様だな。」

 八戒は自嘲気味の笑いを浮かべた。

「・・・僕、彼に抱かれてた事があるんですよ。 他の誰であろうと、較べちゃうっていうか。」

 悟浄に催眠術をかけた日から、誰にも話していない事を、八戒は口にしていた。

 ―――この人には本音が言える。
     ・・・・多分、悟浄に似てるからだ。 見かけだけじゃない、醸し出す空気が似ている。

 そんな思いは知らず、単純に言葉を受け止めた男は、枕から顔を上げ、無機質な目に疑問を乗せて八戒に向ける。

「何、言ってんだ? 付き合ってたって事か? アンタの片想いじゃなかったのか?」
「今は片想いですよ。 つまり、彼にはその記憶が無いんです。」
「・・・言ってる意味がわからない。」
「あはは、だから、僕は覚えてるんですよ。 お付き合いしていた頃の事は、かなり克明に。 でも彼は全く覚えてないっていう、コトなんですけど。」
「そりゃ・・・・。 アンタには相当キツそうだが、でも、そんな事、普通ありえんだろう。」
「あるんです。 僕がそう仕向けたんですから。」
「仕向けた?」

 怪訝な目を八戒に向けていた男は、やがてハッとして目つきを変えた。 唇が僅かに震える。

「・・・・忘れさせた、って、言う事か?」
「そうです。 見よう見まねだったんですけど、なんか上手くいっちゃって。 だから彼は覚えてないんです。 今は立派な女好きですよ。」

 笑って言う八戒を、男が目を見開いて見ていた。 力ない声で、重ねて尋ねてくる。

「・・・・・出来るのか。 アンタはそういう事が。」
「出来ちゃったんですよ、これが。」
「そんな奴が、他にも居るんだ。 ・・・なるほど、だからか。」
「はい?」
「だからアンタは他のどの奴とも違ったんだ。 だから欲情したんだ。 納得したよ。」
「あの、・・・意味がわかりません。」
「分からなくて良い。」

 思いがけず強い語調でそう言われ、今度は八戒が目を見開いた。

「それより、何だってそんな事したんだ? 想いが通じてたのに、何故それを断ち切る?」
「・・・・・・・・男同士の恋愛って、不毛でしょう? まして彼は、僕と付き合う前、無類の女好きだったりしたんです。 実際モテますしね。 だから、いつか僕の元から去って行く日が見えてきてしまって。
 ・・・でも友情なら、死ぬまで続くって思えるじゃないですか。 だから僕は、恋人として傍に居ることより、親友として共にありたいと・・・」
「アンタ、馬鹿だろ。」

 言葉を遮って、男が言う。 一瞬笑顔を忘れて、八戒も反射的に問い返した。

「え?」
「そんなの、死ぬまで辛いだけだ。」
「確かに今は、ちょっと辛いけど・・・段々に、少しづつ忘れて・・・」
「オレはな、八年、あいつと離れてたんだ。」

 無機質だった瞳が、強い光を放っていた。

「忘れようとしたんだよ。 どうしても触れることが出来ない相手だから、忘れるしかないと思ったんだ。
 そうして行った軍隊ってトコは、過酷なトコだった。 戦場では、色んなものを見たし、怖い思いもした。 生きる事だけしか考えられない、そうしないと生き延びられない、そんな生活だった。 それでも・・・あいつを忘れる事は出来なかったんだ。
 夢まで見た。 あいつにキスして、組み敷く夢。 ・・・絶対に不可能なのに。」

 男の眉根が寄せられ、八戒は彼の苦悩をそこに見た。 絶対に触れられない相手? あの細身の、優しげな男が?

「同じ苦しいなら、傍であいつを見ながら苦しもうと思って、俺はこの町に戻って来たんだ。 それでも少しは冷静になってると思ってたんだけどな。 ・・・・・・一回会ったら、もうダメだった。 一瞬で八年前に戻ったよ。
 それなのに、毎日傍にいて忘れるなんて、出来る訳が無い。 ましてアンタは、そいつの事、身体で覚えてるんだろ? 絶対に無理だ。」
「・・・僕は貴方とは違うかもしれない。」
「アンタ、そいつが恋しいんじゃないのか? 違うのか?」
「・・・・。」
「恋しくて、抑えられないから、欲情してもいないのに、オレなんかと寝ようと思ったんだろ? 違うか?」
「それは・・・・」
「抑えられる訳、無い。 オレはあいつに触れたことも無いのに、声聞いただけで何するか分からないんだ。 アンタの言ってる事は、理屈だ。 不可能な理屈だ、ありえない!」

 語調は段々に強まり、最後には叫ぶ寸前までその声が高まっていた。 男は荒い息を吐きながら言葉を止める。

「―――済まない。 責めるつもりは無いんだ。」
「いえ・・・。 自分でも馬鹿な事してるって自覚、ありますから。」
「・・・・・。」
「・・・・・・・。」
「出ようか。 呑ませる店、連れてってやるよ。」

 外に出ると、夕方に止んだはずの雨が、また降り始めていた。

「これは、明日も足止めですかね。」
「いや、昼前には止むよ。」
「・・・分かるんですか?」
「八年、戦場に居たからな。」

 酒場で男と二人、静かに酒を呑んだ。
 身体の熱を交わさなかった代わりに、心の熱情を交し合った形になったためか、何の屈託も無くそれぞれの恋情を語り合う事が、自然に出来た。 他に語れる相手など居なかった二人は、尽きる事無く言葉を紡ぐ。
 それまで見せていた無機質な瞳は、恋する少年の色をのぼせ、まだ少年だった白衣の男が、いかに愛しいかを訥々と語り、緑の瞳は深い愛情を湛えて、自分を求める男の可愛さを笑いを交えて語った。
 ここで行きずりの男相手に、愚痴ともノロケともつかない、誰にも言えなかった想いを吐き出せば、後に残るのはそれぞれ己の不甲斐なさであり、事態をどうにも出来ない、やるせなさである。 それに気付いて、我に返ったような沈黙の時間が訪れ、二人は無言で杯を重ねた。
 口にのぼせるべき言葉も想いも、言えば全て己に立ちかえる、と思えば、もう無い。
 どちらからとも無く、虚しい笑いがこみ上げて、密やかに笑い合うと二人は立ちあがり、たぶん、もう二度と会う事の無い『同士』と、言葉も無く別れた。

 そのまま宿に戻った八戒は、物音に目覚めた三蔵に小言を言われながらベッドにもぐりこむと、新たに求めた本を無意識に一冊取り出す。 就寝前の読書は、八戒の長年の習慣である。 視力の劣化は、これに拠るところが大きいと自覚しているのだが、どうしても止められない。 その時も、当たり前に読もうとページを繰りながら、ふと思い浮かんだ考えに囚われる。
 先ほどの男の、少年時代に立ちかえったような眼を思い浮かべて、そのために出来る事があるな、と思ってしまったのだ。

「・・・・・余計な事だ、そんなの。」

 言葉に出してそれを打ち消すと、本に意識を集中した。





 翌朝、しの付く雨の中、宿でかさを借りた八戒は、薬屋の前までやって来た。
 寝入りばなに思いついた事を実行にうつすために。
 八戒は、男の恋情を語る言葉が思い出されるにつれ、それをあの白衣の男に伝えたくて堪らなくなったのである。 その時は、余計な事だ、と即刻打ち消したにも拘わらず、日を改めてみれば、それを実行する誘惑に勝てなくなっていたのだ。
 深呼吸をして薬屋のドアを開けようとすると、その傍らに赤い札が掛けてあるのが目に入った。 文字などは書かれていない札に、不思議を感じながら、店内に入る。

「いらっしゃいませ。」

 華奢な外見からは想像しがたい、バリトンの声が異邦の客を出迎えた。
 ガラスケース越しに、店主と向かい合う形で椅子に座っていた初老の女性が、八戒を見て、慌てて立ちあがる。 女性は落ち着かない様子で今日はありがとう、と白衣の男に声をかけると、八戒を無礼な侵入者を見る目で睨みつけて、店を出て行った。 それを見送って、これは拙かったかと感じた八戒が、白衣を着た店主に問う。

「あの、もしかしてお邪魔を?」
「赤い札が掛けてあったでしょう? あれが掛かってると、土地の人は入って来ないんだ。 ここは悩み事相談もやってるんでね。」
「・・・スミマセン。 知らぬ事とはいえ・・・」
「いいよ、もう帰ったし、大した事じゃ無いんだ、あの人のは。 旅の人?」
「・・・・ええ。」
「ご用は? お客様。」
「あの、お伺いしたい事があって、貴方に。」
「はい、しがない薬剤師にわかる事でしたら何なりと。」

 様々な薬品を並べたガラスケースの奥に立って、自らを『しがない』と形容した薬剤師は、優しげな笑みを浮かべている。
 薬屋の店先は、閉め切られている事もあり、しのつく雨の生み出す湿気もあって、半袖でも問題ない程の室温なのであるが、薬剤師は長袖の白衣をきっちりと着込み、白い手袋まで嵌めている。 にも拘わらず、彼は汗一つかいておらず、銀に近い金髪は癖毛が空気を孕んで、湿度など無縁のような軽やかさだ。
 華奢なメタルフレームの眼鏡の奥の、優しげなハシバミ色の瞳が、少しだけいたずらっぽく笑って、八戒を見ている。
 その視線は優しげであるのにも拘わらず、見られる者を突き透すような、危うい鋭さを内包していた。 ぞくっと、謂われなく感じた危機感に戸惑い、一瞬アタマが真っ白になった八戒は、それまで用意していた言葉を忘れ、思わず口走る。

「癒えない傷を治す薬はありますか?」

 言葉も無く一瞬目を見張った薬剤師は、次の瞬間、顔を盛大に歪めて吹き出し、可笑しくて堪らないというように笑い出した。
 それを見ながら、我ながらあざとい言い方をしたもんだ、と赤面した八戒が次の言葉を出す前に、笑いを含んだ低めの声が、何とか笑いを収めて言った。

「いや、悪いね。 キミ、意外と考え無しなんだ。 面白かった。 こんなに可笑しいのは久しぶりだよ?」
「・・・意地が悪いですね。」
「ハハハッ、じゃ、マジメに答える? そうね、それが心の傷なら厄介だ。 対症療法で対応するしかないから、まず内容を検証しなきゃね。 体の傷だとしたら・・・・・・ウチで売ってるものなんかより、キミの方が上手くやれるんじゃないの?」

 そう言って、正面から八戒を見つめるハシバミ色の瞳が見開かれ、虹彩の際の淡い黄緑色が彩度を上げた。

「・・・気孔法っていうんだ? ・・・そうだね。 もう少し慣れれば、きっとキミの前に癒えない傷は無くなる。」

 ぞくっと、今度はハッキリ寒気を感じて、八戒は身震いした。 何故、知っている? 初対面なのに。

「・・・何を・・・・言ってるんですか・・・?」

 声を僅かに震わせて、八戒が問うと、薬剤師は一度目を閉じて、再び開いた。 改めて八戒に向けられた眼は、また優しげな表情に戻り、穏やかな笑みまで浮かべている。

「昨日、彭越(ほうえつ)を見てたろ。」
「え?」
「ホラ、彭越がウチの店見てた時、キミはあいつを見てたじゃないか。」
「・・・頬に傷のある?」
「ああ、名前は知らないんだ。 あいつの事で何か言いに来たんじゃないの?」

 眼に穏やかな色を浮かべたまま、薬剤師は事も無げに言う。

「誤解の無いように言っておきますけど、僕は彼に、何の感情も抱いていませんよ?」
「うーん、厳密に言うと違うけど、言ってる事は分かるよ。 恋愛感情は無いって言いたいんだよね。 うん、傷の数が違うし、髪の色も・・・赤か。 へえ、珍しいね、眼も赤いんだ。」
「・・・・・・・・!」

 信じられぬ物を見る八戒の眼に怯えが走った。 それを見返すハシバミ色は、あくまで穏やかだ。

「生きてる人間ってのは、大抵ウルサイぐらい色んな事を同時に思い浮かべているもんさ。 全部拾ってたら、こっちがとっ散らかっちゃうから、普段はセーブしてるんだけど。 キミは面白いから、つい全部拾いたくなっちゃった。 ・・・びっくりした?」
「・・・・・・・・いったい・・・・?」
「混乱してるね?」

 ハシバミ色の瞳が、愉快そうに笑った。

「いつもはこういう事、滅多にしないんだけど、キミはヨソモノだし、ずいぶんとお節介な事、考えながら来たから、わざと意地悪しちゃった。」
「・・・・・・・心が、読めるんですか、貴方。」
「その概念はちょっと違うんだけど、うん。 分かりやすく言うと、そうなるな。 キミ、頭良いんだ。 回転が速い。 次々景色が変わるから、面白いよ、ホントに。 ・・・・ああ、言っとくけど、ボクらの事ならほっといてもらうよ?」
「じゃあ、彼の気持ちも知って・・・・?」
「彭越の代わりにボクに伝えようと思ったんだ? ホント、余計なお世話だよね。 自分で分かってるくせに、何でそういうコトするの?」

 眼鏡の奥の瞳は穏やかだが、もう笑みは浮かべていなかった。

「何故? あの想いを知っていて、・・・どうしてそんな事が言えるんです?」
「あのね、知らないだろうから教えてあげるけど、恋してる状態のヒトって、ホントにキレイなんだよ?」
「・・・・・・?」

 物分かりの悪い生徒に、噛んで含めるように薬剤師は言葉を続ける。 その瞳に倦怠感が見えた。

「例えばあいつが想いを遂げて、心が通じ合うとする。 相手が誰かはこの際、問題じゃない。 現象の話だからね?
 ・・・で、そうなると、今あんなに美しい『恋』の状態は、『愛』に変わってしまい、そのうち『日常』にまで堕落する。 長年連れ添った夫婦なんかになると、相手を一番の親友だとか、共に世間と戦った戦友だとか言い出す。 虫酸が走るね。」

 八戒はそれを聞いて、久々に、この感情を手にした思いがした。

 ―――僕はこの人が、嫌いだ。

「何故、貴方なんかに彼が恋してるのか、分からない。」
「分かる訳ない。」

 そう言って、薬剤師はガラスケースの向こうで僅かに身を乗り出し、八戒の眼を覗き込んだ。 瞳の真円が全て見えるほど見開かれた眼は、狂気を帯びて見える。

「ふうん、彼は悟浄って言うんだ。 ハハッ、彼はテクニシャンな訳だね? だから彼の事が忘れられないの? 無茶なやり方までして自分から切ったくせに、キミも結構エッチなんだ?
 ・・・・ン? ・・・・・悟能って、キミの事なの。 自分の事なのに、そんなに恐れてるんだ。 ・・・・面白いね。 うん、やっぱりキミは面白いよ。」
「・・・・止めてください。」

 瞳の上下が瞼に隠れ、垣間見えた狂気はなりをひそめた。 クスクス笑いはじめたこの男が、また優しげに見えるのが不思議だ。

「ボクは、こうやってキミの目を見るだけで、今言ったこと位、分かっちゃうんだよ。 意識していない、言葉の形をとっていない、無意識にそこにあるものも、ボクには伝わる。 ・・・これが直に触れたらどうなると思う?」

 蒸し暑いほどの店内で、きっちり着込んだ白衣。 手には白い手袋。 なるほど、これは直接誰かと触れるのを忌避しての装備なのか、と八戒は理解した。 そう言えば彼は、ガラスケースの向こうから動こうとしていない。

「あいつはそうしたんだ。 ボクを壊そうとした。」

 瞳は見開かれていなかったが、いまや彼の顔全体から、狂気が垣間見える。

「今後二度とボクに触れる事は許さない。 誰であろうと、絶対にボクに触れさせはしない。 けど、彭越にはあの、美しい状態で居てもらう。 あのままで。」

 けして遂げられる事のない想いを、男は昨夜、語っていたのだ、と八戒は知った。
 一度、僅かに触れただけで、この男は壊れそうになったのだという。 その時、具体的に何が起こったのかは知る由もないが、その事件が双方にとって、未だに癒えない、心の傷となっているのであろう事は、推察できる。

 ―――けして、触れる事の、叶わない相手。

 いっそキッパリと振られていれば、恋しい想いも何時か昇華するかも知れず、だがそれを許さないと言うこの男は、彼に対しても思わせぶりな態度を見せるのだろう。 そうしてその想いを持続させる。 この男になら、簡単にできる事だ。
 昨夜見た、思いつめたような、頬に傷のある横顔を思い出す。
 あのまま、・・・・ずっと?

「そう、骨になるまで。」

 低い声が、八戒の心の中の言葉に対して返事をした。
 薬剤師は優しげな笑顔を浮かべて八戒を見ている。 顔色を無くした八戒は、穏やかな中にも僅かな狂気を帯びたハシバミ色の瞳を、それでも笑顔を作って見返す。

「・・・・気持ちの良いもんじゃないですね。」
「そう? でも、キミには近いものも感じるんだけどね。 ホラ、そんな風に爽やかな笑顔を、上っ面だけ貼りつけて、結構言いたい事言ってるみたいじゃない。 そういうワガママな感じって、ボクは好きなんだけどな。」
「・・・彼を、少しでも好きなんですか?」
「意外と甘い事言うなあ。 そう言うトコは、美しくないよ、キミ。」
「僕は――――」

 笑顔を収め、能面のような無表情を見せて、八戒が言った。

「貴方の言うそれが『美しい事』だっていうんなら、僕は美しくなんか無い。 なりたくもない。」
「若いなー。」

 心から愉快そうに言った薬剤師は、瞳に狂気をのぼせて続ける。

「そのまま八年経ってから、同じ事言ってごらんよ。 それなら、いっそ美しいかも。 でも無理だと思うよ? そんな奴、見た事ないからね。」

 一度消した笑顔を再び顔に貼りつけて、八戒が返す。

「ゴメンですね、貴方の思惑通り動くのなんて。」
「そう、その笑顔。 良いね。」
「帰ります。」
「・・・あいつは、ボクのもんだ。」

 踵を返す八戒の背中から、低い声が更にトーンを低くして言った。

「口惜しかったら、キミも言ってみれば? 夢の中でしか言えないくせに。」
「二度とお会いしません。」
「ハハッ! 八年経ったら、また会おうよ!」

 振りかえらなかったが八戒は、薬剤師がその瞳に狂気を漲らせているのが解かった。 その顔は、見たくない。

「楽しみにしてるからさ!」

 重ねて背にかかる声を無視して、八戒はそこから立ち去った。
 やるせない怒りが、思考を蝕んでいるのが分かる。 不愉快のあまり、脳内のシナプスが所々ショートしているようだ。

 確かに、理屈はわかる。
 あの傷の男・・・彭越が、全てを知っているのだとしたら、この町に戻ってきた時点で、彼は昨夜言っていた通り、彼から離れる努力をするのを放棄したのだ。
 彼が自分で決めた事だ。 あの男にそう仕向けられたのだとしても、ニ、三度顔を会わせた事があるというだけの自分が、口を出すべきじゃない。 まして、それと知った薬剤師が不快と感じ、わざと八戒にきつく当たったのだとしたら、責められるべきは自分なのかもしれない、とも思う。 そこまでは分かる。
 この上なく不快な体験ではあったが、除々に狂気を帯びて、暗い光を強くして行ったあの瞳が、通常は穏やかな笑みを崩さないのだとしたら、その負荷は相当なものに違いなく、それに耐え続ける精神が箍を失うと、ああいう考え方になるものなのかも知れない、とも思う。
 けれど。
 釈然としないまま、宿へと戻る八戒は、雨が止んでいる事に気付いていなかった。


 昼食を摂ってから、ぬかるむ道を、一行は出発した。
 丸二日近く休養をとった形になったメンバーは、みな元気が有り余っているようで、常ならすぐに寝てしまう三蔵も起きているし、後部座席では、十年一日の如く、小競り合いが始まっている。 やがて三蔵のハリセンが振るわれ、賑やかさを増す車上で、笑顔を貼りつけてハンドルを握ったまま、八戒は思い耽っていた。

『恋は愛になり、やがて日常へと―――』
『長年連れ添った夫婦は一番の親友と―――』

 言葉を吐いた当人が、虫酸が走ると表現した、その同じ言葉が、八戒の気持ちに楔を打ち込んでいたのだ。

 何故、そう思えなかったのか。
 行きつくところにそれがあると考える事が、何故出来なかったのか。
 別れがいずれ必ず来ると、あれほどに確信していたのは、何故か。

 簡単に答えが出る命題では、なさそうであった。



 なかなか町には行き当たらず、野宿を続けて一週間も経つと、車上には倦怠感が漂い始める。
 三蔵はずっと眠っているし、悟空と悟浄も、レクリエーションとしての小競り合いには飽きたらしく、大人しくしている。 ・・・はずだったのだが、今現在、二人は、ありえないほど下らない原因で、聞くに耐えないほどレベルの低い喧嘩を始めていた。
 このところ妖怪の襲撃もないので、力が有り余っているというのも原因の一つだろう、と考えながら、三蔵が目覚めると面倒だと思った八戒が、後ろの二人に声を掛ける。

「元気がいいのは良いですけど、暴れて落ちたりしても、拾いに行ってあげませんからね? いい加減にしておかないと、そろそろ三蔵が目を覚ましますよ?」
「だって、八戒! こいつ、俺の陣地に煙草の灰落とすんだよ!」
「あぁ? いつからンな線引きしたんだよ、バカ猿! ワケわかんねーコト言ってんじゃねえよ!」
「真ん中からコッチが俺の陣地だよ! 普通、そうだろ!」
「ガタイのでかさ考えろ、脳なし。 俺サマの方が、てめえより多くの空間を必要とするって事ぐらい、わかれ、短足!」
「ナンだよ、その言い方!」
「喧しい!」

 いつ目覚めたのか、それとも狸寝入りを決めこんでいたのか、寝起きだけはすこぶる良い為、それが判然としない最高僧が、いきなりのハイテンションで怒鳴ると、間髪入れず発砲する。

「アブね! いきなり撃つなよ、エセ坊主!」
「黙れと言ってる。」

 銃弾の威力は、二人にも十分理解されているようで、一瞬にして後部座席は静まり返った。 が、静寂は五分も続かなかった。
 再び座席にもたれて目を閉じた三蔵の、気を荒立てないように考えての事か、悟空が小声で、だがもう耐えられないと言う語調で、呟いたのだ。

「腹減ったよう、八戒。」
「あはは、もう夕方ですものね。」

 言いながら、八戒は出発前に見た地図を思い浮かべ、傍らの旅行主催者に問う。

「三蔵、あっちに川が流れてる筈なんで、河原を走って良さそうな所見つけたら、ジープ止めちゃって良いですか? どうせ、今日も野宿になるんだし、少しでも明るい方が、野営の準備も楽だし。」
「好きにしろ。」
「また野宿かよ! ・・・何日ヒトの肌に触れてねぇと思ってんだ?」
「悟浄、三蔵に触りたいのか?」
「あぁ? ナニ言ってんだサル。」
「だって人の肌、触りたいんだろ? こん中でヒトは三蔵だけだぞ?」
「ガキ! 沸いてんじゃねぇ! だ〜れが野郎に触りてぇもんかよ!」
「ナンだよ、じゃ、どういう事だよ!」
「ハ〜イハイ、おこちゃまは知らなくてイイんだよ〜ン。 黙ってな。」
「それ位にしときましょうね。 舌噛みますよ?」

 次の瞬間、河原に突入したジープが、石の凹凸に合わせて跳ねる。 辛うじて舌を傷つけずに済んだ二人は、またも沈黙を強いられた。 しばらくして、木立に囲まれた草地を見つけた八戒がその脇にジープを止め、ようやく一行は落ち着きを取り戻す。

「どうです、三蔵。 ここなら身体伸ばして眠れますよ。」
「ふん。」

 最高僧が鼻を鳴らすと、今夜の寝床が決まった。

「やった! メシ! メシ!」
「悟空、まず水を汲んで来て下さい。 悟浄は火を熾して下さいね。」
「オッケー!」
「てか、また? ナンで俺はいっつも火の係なワケ?」
「火遊び、好きでしょ?」
「な〜るほど、ってソレ、違わねぇか?」

 一週間も町に寄らずにいると、生鮮食品が底をついてくる。 勢い、夕食は缶詰中心となり、八戒が作った野菜スープのみが、一行の胃を癒す味であった。
 食事を終えると、三蔵と悟浄はコーヒーを飲みながら煙草をくゆらせ始め、悟空は辺りの木に登ったり走り回ったりして一人遊びに余念がない。 『火の係』常任を指名された悟浄が、走り回る悟空に薪集めを命じた以外、働こうとする意志の見えるものは居なかった。 当然のように後片付けは八戒に任されている。
 常なら悟空か悟浄を指名して、手伝わせるのだが、今日は少し一人で考えたい事があった為、汚れた食器を手にした八戒は、あえて一人で河原へ向かった。
 先日来考えている、未だ結論の出ない命題に付いて、ゆっくり考えたかったのだ。

 過去、八戒が信用できなかったのは、時間、であった。
 悟浄が未来において、心変わりをするに違いない、決めつけたのも、それが時間の意志によると思っていたからだ。
 大いなる時間の流れに、ただ生きていると言うだけで既にそれに囚われている自分たち如きが、抗える訳がない、と思ったのである。 時が経つにつれ、人の心は変わって行く。 それは不動の法則であるように思えた。
 ならば永遠に愛し合い続ける事などありえない、と、思わざるをえなかった。 男同士で、しかも大量虐殺者である自分が、神に愛された人にのみ与えられるべき、永遠の愛、など受けられるはずが無い。 その証拠に、見よう見真似の催眠術ごときで、自分たちの関係は終わった。
 やはり神は、自分達を受け入れはしないのだ。
 だが。
 目の前を清らかな水が、絶える事無く流れている。
 河は、実のところ、日々変化しているに違いない。
 昨日あった川底のコケは、今日小魚に食われ、今日いた沢蟹は、明日には魚に食われているかもしれない。 上流から流されてきた小石が積もり積もって、いずれ大きな石を動かすかもしれない。
 そんな風に起こる僅かな変化など呑み込んで、十年一日の如く、傍目には全く変わらぬ顔を見せて、河は流れ続けているのだろう。
 それに目を奪われて、八戒は、何かがひとつ、ストンと腹に納まったように感じた。

 ―――そうだ。
     人の心を知ることの出来るあの男は、『骨になるまで』気持ちを変えずにいてもらう、と言った。
     つまりそれは、可能な事なんだ。
     可能だと言うなら。
     あの男に可能な事であるなら、僕にだって可能なはずだ。 そう、思える。
     彼より自分の方が、神に嫌われているとは思えない。
     だって、僕は仲間に出会えた。 それだけで充分に、ラッキーなのだ、僕は。
    
 河を流れる水音が耳にやさしく、穏やかな気持ちになって、八戒は洗ったまま放置していた食器を拭う。

 ―――そう、僕には出来る。 八戒として生まれ変わった僕になら出来る筈だ。
     そのために、未来を変えるために、僕はここに居るんだ。 未来を生きぬく為に。

 水面に、眼鏡をかけた色白の薬剤師の、穏やかな顔が浮かんだ。

 ―――・・・・・良いだろう。
     八年経ったら、彼に会いに行こう。
     その時は、弱みなど見せるものか。 事態がどう転ぼうが、思い悩む事無く彼の前に立って見せる。
     イチから・・・いや、ゼロから始めるんだ。
     僕たちの関係が、どのようなものになろうと、恥じる事無く彼に心を見せてやる。
     そのためになら、何でもできる。

 そう、思いきわめて、自ずと笑みをこぼした八戒に、遠くから声がかかった。

「おーい、いつまで皿洗ってんだー?」

 悟浄の声だった。 立ちあがって、八戒も声を張る。

「終わりましたよ!」
「なら、来いよー! コーヒー入ったぜー!」

 火の元に戻ると、毛布にくるまった悟空が鼾を響かせていた。
 悟浄の傍らには、悟空に命じて集めさせたのであろう、枯れ枝が積まれている。
 少し離れたジープの座席を倒して、三蔵も既に就寝しているようだった。

「なあ、今度買出しの時、ちょこっと位、酒買わねぇ? 絶対、三蔵にはバレねぇと思うんだけど。」
「そうですねぇ。 こう言う時、ちょっとあると良いですね、確かに。」
「でもお前、ちょこっとで済まなくね?」
「少しだけお酒を楽しむ事だって出来ますよ。」
「なら、決まりだな。 次の町入ったら、買出し、俺も付き合ってやるからさ、美味いヤツ選ぼうぜ?」
「ですね。」

 ここから、新たに自分たちの関係を築いて行けば良い。 そう、素直に考えられる自分が、八戒は嬉しかった。

「いやあ、この前の町は、散々だったなー。」
「そうですか?」
「雨に降られて、身動き取れねぇし、オンナには二日連続フラれるしよ。 お前だって、楽しみにしてたんだろ、市が立つとかって。 結局行けなかったんじゃね?」
「ああ、そうですね。」

 でも、自分には意味のある滞在だった、と、八戒は思えた。

「ナンカ、変なモンも見ちまったし。」
「・・・・・何ですか?」

 悟浄の瞳が、意味ありげな色を見せて八戒を一瞬見つめ、目を逸らしてから言葉が零れた。

「・・・・お前って、オトコが好きなヤツだったの?」

 八戒の息が、止まった。

「姉ちゃんしかオンナ知らねえとか言ってたけど、それってオトコの方が好きだから?」
「・・・・そういう、どうでも良い事は、良く覚えてるんですね。」
「誤魔化すなよ。 俺、見ちまったからさ。 ホテル入るトコ。」
「・・・・・・・そうですか。」
「・・・。 俺んちにいる時もあった? あーゆーコト。」
「旅に出てからですよ。 ・・・・・まあ、最近、です。」
「・・・やっぱ、オトコズキ、なんだ。」

 単純な言葉にされると、それはちょっと違う、と思いながら、しかし悟浄に理解させるために、言葉を費やすのにも抵抗があった。 その為には、記憶を変えた事を話さなければならない。
 故に致し方なく、八戒は目を伏せて、沈黙を返した。

「好みのタイプとか、あるワケ、やっぱ?」
「スミマセン・・・・・ちょっと、歩いてきます。」

 囁くような声でやっとそれだけ言うと、八戒は立ちあがって木立の奥へと歩いて行った。
 歩みはどこか頼りない。 常なら無意識に動く足を、今、動かすためには意志の力が必要だった。
 身体中に力が入らず、泥のように重い。 軽い貧血状態なのだ、と経験から判断した八戒は、それでも歩みを止めることは出来なかった。 少しでも、悟浄から距離を置きたい。 本当なら、二度と顔を会わせたくない。
 ついさっき、新たな関係を築こうと決めた相手に、一番知られたくない事を知られていた。
 頬に傷のある用心棒が、戦場を選んだ理由が、今、八戒には、痛いほど解かる。
 可能なら、この身を滅ぼしてしまいたいほどの、激しい後悔。
 愚かな自分への抑え難い羞恥。

 ―――でも、自分が、した事だ。

 どれだけ歩いたのか、気づくと辺りは木々の立つ密度が上がり、森と言える状態になっている。
 ふらついて思わず木に手をつき、それ以上歩き続ける体力がないと感じた八戒は、そのまま凭れ掛かると、自覚無しに持ってきていたカップに気付いた。
 冷めきったコーヒーを一口すする。

 なるほど、何も知らぬ悟浄から見れば、そうなるのは当然の事だ。
 ゼロから始めようと思った矢先にコレでは、先が思いやられる。 これではスタート地点はマイナスじゃないか、と溜息をつく。
 どれもこれも、自分のした事だと思えば、甘んじて受けるしかない誤解だが、どうにもやるせなくなり、もう一つ、溜息を付いたところで、背後から声がかかった。

「八戒。」

 悟浄だった。 後を付いてくるとは思わなかった。
 虚空を見つめる碧の瞳が、無意識に大きく見開かれる。

「お前、もしかして誘ってる?」

 思わず振り返ると、悟浄のシルエットだけが目に飛びこんできた。 木々の隙間から僅かに零れる月明かりを背にして立つ悟浄は、逆光を受ける格好になっていて、その表情を伺う事が出来ない。 歩み寄ってくる悟浄の足元で、踏まれた小枝がパキンと音を立てた。

「こんな暗いトコまで、連れ込んでさ。 相手は、誰でもイイんだ? ・・・・俺でも?」

 ゆっくりと歩み寄りながら、悟浄は言葉を続ける。

「まあイイよ、ノッテやっても。 前の町で抜けなかったからさ、結構タマってるし。」
「違う・・・」

 やっと発した言葉は、かすれて殆ど意味を伝えなかった。

「俺と、する?」

 至近まで歩み寄ってきた悟浄の表情が、おぼろげに見えた。 赤い瞳に、欲の熱が浮かんでるようだ。
 碧の瞳を大きく見開いたまま、固まって動けなくなっている八戒の、カップを持った方の腕をつかんだ悟浄が、ぐい、とそれを引き寄せる。 コーヒーが零れて服にシミをつけたが、悟浄はそれに構わず、両腕でその身体を包み込んだ。 腕の中にすっぽりと納まる形になって、包み込まれるその感触に、八戒はびくりと身を震わせる。
 八戒の耳元で、低めのハスキーな声が、更にかすれて言葉を漏らす。

「黙ってると、ヤッちまうぜ?」

 目を見開いたまま、紅い髪ごしに森の暗闇を見つめ、八戒の喉が、ごくり、と鳴った。

「イイの? ホントにヤルよ、俺。」

 悟浄の唇が首筋に触れると、過剰な反応を示して、八戒は声をあげた。

「くっ・・・・・・!」




 《 To Be Continued For 思慕のウラハラ 世迷いごと。 4》




 ああ、長い・・・・・。 でも、まだ続くんです。
 どうか、お付き合いくださいませ。

 
 

(プラウザを閉じてお戻り下さい)