『思慕のウラハラ 世迷いごと。 2』2005.03.31

 



 悟浄に似ている、と、一瞬感じてしまった男と一夜を過ごし、僕は心に重いしこりを抱え・・・

 いったんは止めていた酒場通いを、僕は再開した。
 再開する以前と較べると、目的が増えていた。 身の内にわだかまる欲望を抑え難い時、僕は代替品でそれを鎮める術を知ったから。 悟浄とは違う、背の低い男、澄んだ声の男、髪の短い男、煙草を吸わない・・・・・。
 そんな条件を満たす男と視線が絡めば、その夜の相手は決まった。
 少しでも似たところのある男は、最初から選ばなかった。

 見も知らぬ男に身を任せ、でもけして満たされる事は無く、むしろ虚しさを抱えて宿に戻り、ベッドにもぐりこむ。
 それでも、以前よりはマシだった。
 とりあえず、眠る事は出来るし、甘い記憶を夢に見る事も無いから。

 ・・・・それにしても、過去からの決別と引き換えに抱え込んだ負債の、なんと大きい事か。





            ――― 思慕のウラハラ 世迷いごと。 2 ―――





 その夜も八戒は、同室の三蔵が寝入ったのを確かめて、ひっそりと部屋を出た。
 宿にバーなどが備わっていればそこへ足を運び、そうでなければ酒場へと出向く。 目的は、酒を呑む事だけではない。
 八戒は大抵カウンターに席を占め、旅の者だと自己紹介して、町の様子や治安などを聞き出す。
 世間の動向や、地元の住民のみが知るような情報を集め、肌でその土地の状態を知る。 それが第一の目的だ。

そこが辺鄙な土地であればあるほど、住民にとっての娯楽は少ない。 であるが故に、酒場は一種の社交場として機能している場合が多かった。 夜ともなれば職業も年齢もまちまちな人々がそこに集い、情報交換をかねて酒を酌み交わすのである。
 他の土地の色々な話を聞きたがる人々は、大抵あたたかく旅の者を迎え入れてくれ、まあ呑め、さあ食え、と勧められるままに杯を重ねれば、聞かずとも地域の情報はもたらされた。 新聞などには載っていないナマの声がそこにはあり、それは旅を続ける上での、大切な情報ソースになっていた。 八戒が酒場通いを続ける所以である。
 それに加えて、日ごろ、旅のメンバーに良いように使われている、憂さ晴らしも目的の一つ。

 さらにもう一つの目的が加わったのは、最近の事だが、これは必ずしも達せられる訳ではなかった。
 相手が誰でも良い、とは八戒も思っていない。 だが、求める空気が彼には漂っているのか、一人で呑んでいると大抵は誘いがかかって来た。 声をかけてくるなり、視線で訴えるなり、あからさまに誘う男がいて、それを八戒が『可』と思える場合のみ応えるという形である。
 そう思える相手に出会えなければ、一人で宿に戻るだけだ。

 酒場では悟浄に出くわす事もしばしばある。
 そんな時、お互いに目で挨拶は交わすものの、声を掛け合う事無く、それぞれの目的に集中するのが常だった。 そういう距離感は、三年を数える同居生活が作り上げたものだ。 目で会話する。 相手の気分の置き所を悟る。 触れてはいけない言葉を飲み込む・・・・。
 酒場で出会うと、たいてい女性を口説き落としている最中である悟浄は、その視線で『邪魔すんな』と伝え、八戒は『相変わらずですねぇ。』と苦笑を湛えた目線を返す。 それ以降、八戒が悟浄に目を向けることは無いので、二人の視線が交わる事は無いのが常だ。
 だから八戒はその夜も、自分の後姿を紅い瞳が見ている事に、気付いてはいなかった。
 それ故、唐突にかけられた声は、意外だったのだ。

「よお、八戒。」

 まさか、と振り向くと、苦笑を湛えた紅い瞳が、すぐ後ろで八戒を見ている。

「あれ、お相手は? さっきまで、女性が一緒でしたよね?」
「振られちった。 今日はダメだな。 俺、去る者は追わねぇから。」
「ああ、そうでしたね。」

 悟浄は当然のように隣の席に座り、改めてビールを注文する。

「たまには二人で呑もっか?」

 ニッと笑って、いまさらの言葉を口にする悟浄に、八戒も笑顔を返した。

「・・・・・久しぶりですねえ、こういうの。」
「だな。 旅に出てからこっち、初めてじゃね?」
「その前だって、滅多に無かったですよ。」

 会話が途切れ、二人はしばし、無言で杯を重ねた。 悟浄はビールを、八戒は酒を。
 沈黙も、二人にとっては苦痛ではなく、自然である。 二人の家では、こんな時間が長かった、と、それぞれ、言葉に出さずに思い出していた。
 旅に出てから半年が過ぎようとしていたが、こんな風に二人で話す事自体、久しぶりの事であった。 一方にとって、それはわざとそう仕向けていた事なのだが、その当人はもう一方の真意をはかりかねて、取り繕うような声を出す。

「そう言えば、明日の朝、市が立つそうですよ。 新鮮な物が安価で手に入るそうなので、明日は早起きして行ってみようかと思ってるんですけど・・・・。」
「ああ〜俺、パス。 荷物持ちなら、サルにでも声かけな。」
「・・・悟空を連れて行くと、余計な買い物をする破目になりますから。」

 グラスを弄びながら言う八戒に向けられた紅い瞳が、苦笑の形に歪む。

「ほんっと、お前ってあいつには甘えよな。」
「・・・・だって、勝てませんよ。 ああ真っ直ぐに来られると。」
「それって、お前がひん曲がり過ぎ、だから?」
「・・・・・否定はしませんけど。」

 今度は碧の瞳に苦笑が浮かんだ。

「言えてます、確かに。 けど悟浄、人の事言えます?」
「俺は別に、サルに引け目はねぇもん。」
「そうですか? ・・・まあ、確かに、同レベルと言うか。」
「あのー、八戒さん? ・・・それは無くねぇ?」

 ニッコリとそ知らぬ笑顔を作って、八戒は悟浄を見た。

「たぶん、三蔵も同じ意見だと思いますけど?」
「だからナンだよ。」
「自覚あるくせに。」
「お前、俺で遊ぼうっての? 小猿ちゅわんと間違えてねぇ?」
「でも悟浄、女性を弄ぶのはお得意ですよね?」
「はぁ? てめえみてーな性悪じゃねえよ、俺は。」
「人聞きの悪い。」

 笑顔で重ねる八戒の視線を、真顔で受け止めてから正面に顔を向けた悟浄が、低めの声を出した。

「つーか、俺はサ。 来る奴は誰だってOKだし、去ってく奴もそれならそれでOKなの。 オンナでも野郎でも、変わらねぇし、それは。」

 ―――知っている。 僕はそれを知っている。
    それが、幼い頃の経験から覚えた、ある種の諦めから来ている物だという事も、僕は知っている。

「このまんまで居るだけだからサ。 サルだろーがクソ坊主だろーが、・・・お前だろーが、引け目はねぇよ。」
「・・・・それでも、お兄さんを追ったでしょう?」

 窺うような緑の瞳を見返す事無く、正面を向いたまま、悟浄は自嘲気味に続けた。

「だ〜からさ〜、追っかけたって無理なもんは無理だろー? 学んだの、これでも! 俺、三蔵が言うほど馬鹿じゃねぇぜ?」
「・・・・知ってますよ。」

 悟浄の横顔を窺う形のまま、八戒は沈んだ声を出し、気を取り直したように次のセリフのトーンを上げた。

「まあ、時に大馬鹿をやらかすって事も、知ってますけど?」
「でたよ。 そう来るんだよな、お前って。」

 八戒が毒を吐けば、悟浄は情けない顔をして見せる。
 二人で住んでいた頃に、戻ったようだった。
 あえて言葉にしない意思も、お互いには伝わっている。 知らぬ人が聞いたら謎かけの応酬のようにしか聞こえない会話が、二人にとっては自然で、気楽だ。 そして言葉が途切れても、それをわざとらしく取り繕ったり、言葉の接ぎ穂を求めて頭を悩ませる必要も無い。
 沈黙も、二人の間では、自然な時の過ごし方なのだ。

「さて、と。 朝、早えんなら、帰ってクソして寝っか!」
「じゃ、明日は荷物持ち、お願いしましたから。」
「だから、ヤダって! 早起きはカンベンして!」
「ダメですよ。 悟浄が一番たくさん持てるんですから。」
「嬉しくねぇー、それ!」

 宿までの短い道のりのあいだ、八戒は悟浄との会話を楽しんだ。
 楽しかった。 単純に。

 ―――そう、僕はこんな時間を求めて、あの決断をしたのだ。 今、少しくらい辛いからって、それが何だ。
     悟浄と、わだかまり無く、こんな風に過ごせる日がきっと来る。
     今、この時間の行きつくところに、それはある。
     そう思えば、自分の抱える生理的な苦悩なんて、何でもないじゃないか。

 そんな風に、自分を納得させる事が出来るような気がするほど、楽しかった。
 宿に戻り、それぞれの部屋に分かれて、ベッドにもぐりこんだ八戒は、穏やかな気分に包まれていた。 今日は安眠できそうだ、と安堵し、目を閉じたのだが。


 無骨な指が、器用に肌の上に急所を見つけ、的確にそこをなぞる。 馴れた手管に敏感に反応してしまう身体は、意志の力の及ばぬところで小刻みに震え、時にビクンと跳ねる。
『ここも好きだろ、八戒。』
 ハスキーな低い声がそう囁いた。 
 耳元で囁かれる、熱を帯びて湿ったような、その声にさえ感じてしまい、思わず声を漏らすと、彼の声がまたも僕を煽る。
『イイ声。 もっと聞かせて、八戒。』
 その声で名前を呼ばれるのが、堪らない。
 身体の芯から生まれる熱は、もうすでに表皮に達して、全身は汗にまみれている。
 もっと、もっと、と声にならない声で求めるものに、確実に応えてくれる指が、舌が、唇が、僕を責める。
 もう、我慢できない・・・・・。
 早く、はやく・・・・。


 スパーン!


 静寂の中に響いた乾いた音と、軽い痛みを伴う衝撃に、夢から呼び覚まされた八戒は、視界の中に鋭い怒りを湛えた、眉間の皺も深い紫眼を見つけ、現状を把握するのにしばしの時間を要した。

「喧しいんだよ。」
「・・・・・・。」

 呆然と言葉を失っていた八戒は、紫の瞳に射貫かれて、条件反射で返事を返す。

「・・・・・はい?」
「寝ながら変な声、出してんじゃねえ。」

 ハリセンの初洗礼を受けたのだと気付いた時には、きつく睨めつける紫色の双眸を縁取る、金色の髪が、怒りのあまり小刻みに震えているのが見えた。 今まで悟浄や悟空に対してのみ使用され、一度たりと自分に向けて振るわれた事の無いハリセンが、怒りのあまりか、その右手で震えている。

「・・・・声、出てました?」
「サカリ中の猫か、貴様。」

 顔に熱が登るのを自覚し、八戒は自分が赤面しているのだと知った。 耳まで熱い。
 それに構わず、キツイ視線のまま、押し殺すような声が、薄い唇から続けて放たれた。

「貴様、平気なフリ続けるつもりならきっちり持続しやがれ。 中途半端なんだよ、何もかも。」
「あの・・・・・・」
「自分で別れたとか言っといて、なんだ、そのザマは。」
「・・・三蔵?」
「知ってんのが俺だけだってのも気にくわねぇ。 野郎は自覚ねえし、いつまで俺に黙って見てろってんだ。」

 八戒が物を言う間を与えまいと断続して紡がれる言葉は、溜めに溜めた鬱憤を今こそ晴らそうとするかのようで、主語と目的語を欠いた言いまわしは、三蔵の怒りがかなり深い事を表していた。
 僕は無自覚に、何度も彼の安眠を妨害していたらしい。
 と、八戒は遅まきながら理解した。 眠りを妨げられるのを三蔵が何より嫌う事は、寺では周知の事実であったのだが、どうやらその禁忌に激しく触れてしまっていた様だ。
 まずい、という感覚と、激しい羞恥のため、八戒の思考経路はいつに無く愚鈍になっている。
 ベッドの傍らに立って、寝着のまま、それを見下ろしている最高僧は真実、怒っていた。 いつになく多い言葉数も、それを顕著に表していた。
 思考を殆ど停止した状態で、とりあえず取り繕おうとする本能が、八戒に笑顔を作らせる。

「・・・あはは、・・・バレバレでした? もしかして。」
「当たり前だ。 俺を何だと思ってる。」
「スミマセン。」

 三蔵は身を翻して自分のベッドに向かい、そこに身を横たえようとしながら言葉を継いだ。

「分かってんのか。 任務中なんだぞ。」
「・・・。」
「てめえで処理できねえような問題抱えて、何が出来ると思ってやがる。」
「・・・・・スミマセン。」
「てめえら二人とも、鬱陶しくて叶わん。」
「え?」 
「・・・・・・・・。」

 最高僧は半ば横たえた身を腕で支えながら、紫の瞳に剣を含んで八戒をにらみつけている。

「・・・・・河童の方がまだマシだ。 馬鹿だと言う自覚がある分な。」
「・・・あの、なぜ悟浄が?」

 何故ここで悟浄の名が出るのか理解できない、と物語る八戒の表情を見た次の瞬間、怒りが爆発したように、三蔵の声が高まった。

「馬鹿が!」
「・・・は・・・。」

 心許ない声を返す八戒に、ベッドにもぐりこんだ背中から、駄目押しの一声が掛かった。

「二度と変な声出しやがるなよ。 今度は撃つぞ。」
「・・・・・・・。」

 再び顔に熱が登るのを感じ、自己嫌悪と共にやるせない溜息をついた八戒は、もう眠る事が出来なくなっていた。
 ベッドから離れて身支度を整え、部屋から出て行く八戒の気配を感じながら、そ知らぬフリを続ける三蔵も、身を横たえたまま忌々しそうに溜息をついた。
 お節介は性分じゃねえ。 むしろこれは河童の領分だ、と思いつつ、事態を改善させるべく方策を練りはじめた頭の片隅で、自嘲と共に考える。

 ―――しょうがねえ。 自覚ない方の馬鹿に分からせるには、荒療治も必要って事だ。






 三蔵が、言葉を発するに関して吝嗇である、という事は知っている。
 常に最低限の文言で、

『理解しろ、分からないなら馬鹿なてめえが悪いと諦めろ』

 とばかりにフォローも説明も皆無のまま突き放す。 それが彼の常態である。
 他の二人に較べて、言語理解能力の高さを認めているらしい八戒に対しては、特にその傾向が強く、全てを須らく説明する事を求めても、得られないのはわかっていた。
 ではあるが、先の三蔵の言葉の中に、悟浄を表す固有名詞が入っていた事が、八戒の理解を苦しめている。 それに加えて、自分の痴態に通じる声を聞かれていたらしいと改めて自覚すれば、性懲りなく湧き上がる羞恥の意識が、その身を貫いた。
 出来得る事なら二度と顔を合わせないで済ませたいくらいなのだが、それは望むべくもなく、明日の朝までに、とにかく開き直るところまで自分を持っていくしかない、と思い極めるものの、ただ歩き回るだけでこの意識が変わる訳もない。

『分かってんのか、任務中なんだぞ。』

 言わずもがなの言葉を、あえて口にした三蔵の意思の方向は、いうまでもなく、事態の早期解決を促すものだ。 だがそれは自分の中で鎮めていくしかないと考えていた八戒にとって、悟浄に言及した三蔵の思惑が分からない。
 とりあえず座ろう、落ち着いて呑みなおすか、と向かった先ほどの酒場はもう閉まっていた。
 不案内な町の中、深夜であるため、窓に灯りが見える家すら皆無な暗闇の中で、月の光に照らされながらしばし呆然と立ち尽くした八戒は、それでも気を取り直して、ぶらぶらと歩き始めた。 気の緩みからか、珍しくも所在無い内心を表情に漏れ出させながら、さまよう八戒の目に、隠微に光るネオンが入ったのは、むしろ僥倖と言うべきか。
 それは、旅の者の目には入れまいと意図したように入り組んだ道程の先、古びた建物に囲まれ、どんづまりにしか見えない小路にあった。 その場所全体が醸し出す、表通りとは様相を異にしたいわくありげなたたずまいは、健全で平凡に見えたこの町の、裏に存在する何物かを示唆するようでもある。
 生きている人であれば、多かれ少なかれ、表の顔と裏の顔がある。
 それと同じ様に、『町』という物にも、個性や性格があり、表と裏の顔があるものだ。 通りすぎるだけの旅人に対しては、穏やかで平凡な顔しか見せなかったこの町の、そんな裏の顔がこの小路であるように思えた。
 ・・・・・今の自分には、似合いの場所だ。
 と、八戒は思った。
 まるっきり『裏の顔』を無意識とはいえ三蔵に見せていたのだから・・・などと自嘲気味に考えながら、そのネオンの元に歩み寄った八戒は、何の躊躇もなく扉を押した。

 その中は、甘いような饐えたような香りが漂っており、けぶった空気が充満していた。 足元も見えないほど絞られた照明が、微かに卓とカウンターを照らしているのみで、店の全容はつかむべくも無かったが、酒を呑ませるような店である事は、分かった。
 常の店ならまずかかるであろう、迎え入れる言葉も無く、よそ者を見る無機質な視線のみが感じられる。 人が居る、という気配は感じるのだが、誰の声も聞こえない。 聞こえる音は、静かに流れている、ブルースのリズムを刻むベース音のみ、であった。

「見ない顔だね。 どこの人?」

 唐突にかけられた声は、若い男のもので、響きが柔らかだった。

「旅の途中なんです。 呑めるところは無いかと探してたんですけど、ここは・・・?」
「・・・呑めるけど。 座れば?」
「・・・・・ええ。」

 闇になれた目でも、その店内を歩くのは覚束なかった。 まして八戒の視力は、けして良いとは言えない。 卓に足をぶつけたりしながら、カウンターまで辿りついた八戒は、スツールに腰を置き、その中に立っている人影に目を向けた。 耳が隠れる程度の長さの、ウェーブの掛かった柔らかそうな髪。 メタルフレームの丸めがね。 小柄で華奢なその男は、二十代前半に見える。 その口から、先ほど聞こえた声が発された。

「何にする?」
「何がありますか?」
「酒なら大抵。 腹、減ってる?」
「いえ。」
「そりゃ良かった。 今、何も無いんだ。」

 小馬鹿にしたような口調で丸めがねの男が言うと、ぶっ、と吹き出すような音と、ひそやかな乾いた笑い声が店内に響く。 自分を歓迎しない、数人の客と思しき人が居る事を教えられ、不愉快を押し殺して八戒が言う。

「・・・・じゃあジンを、ロックで。」
「かあっこイイ・・・」
「しっ!」
「クックッ・・・」

 揶揄する声と忍び笑いがまた別の方向から聞こえた。 我関せずとばかりに無反応な丸めがねの男に、笑顔を作って八戒は問う。

「貴方がマスターなんですか?」
「そうだよ。 何で?」
「ずいぶん若いんですね。」
「そう見えるだけだよ。 暗いし。」

 言いながら、八戒の目の前にジンと氷の入ったロックグラスと、チェイサーを置いた男は、八戒の右側にふと視線を向けた。

「見かけほど若くないぜ、このヒトは。」

 唐突に右から聞こえた声に驚いて顔を向けると、一人の男が無表情に立っていた。 こんな事は滅多にない事だ。 近づく気配を全く感じなかった。

「となり、いいか?」
「―――どうぞ。」

 ごく自然に隣りのスツールに腰を置いた男は、短く切りそろえた暗い色の髪を、後ろに撫でつけるようにしており、奥目気味の瞳も暗い色をしている。 その頬には目立つ傷跡が一筋、あった。
 男が八戒の隣に座ったとたん、店の中に漂っていた緊張の糸が切れたようだった。 ざわざわと話し声が聞こえ、人の気配が濃厚になる。

「緊張してるのか?」
「・・・・何故?」
「さっき、ビクッとしただろ?」
「・・・・貴方の気配を、全く感じなかったので驚いたんですよ。」
「気配、ねえ。 去年まで兵隊だったから、そういうのは癖になってるかもしれん。 無意識だよ。 悪く思わんでくれ。」

 左頬に一筋刻まれた傷に、ついつい目が行ってしまう八戒は、質問を返した。

「・・・・その傷は、戦場で?」
「いや、コレは前から。」

 何もいわないのに、男の前にはウイスキーと思われるグラスが置かれる。 それを当たり前のように取り、男は一気に呷った。

「ここには良く来るんですか?」
「オレは雇われてるんだ。 用心棒ってヤツだ。」
「・・・・なるほど。」

 男が隣に座った意味を悟り、笑顔で八戒は聞く。

「僕、怪しいですか?」
「よそモンがふらっと入って来るような店じゃねえからな。」
「でしょうね。」

 苦笑と共に八戒が言うと、男は探るように質問を重ねてきた。

「旅の途中だって? このご時世に、一人旅?」
「いえ、四人旅です。 男ばっかりで気が抜けないんで、息抜きに呑みたかったんですよ。」

 いわずもがなの言い訳を口にして、八戒は苦笑した。
 なるほど、この店で旅の者だと正直に答えたのは、かなり拙かった。 考え無しにも程があろうというものだ。 常の自分ならけして犯さぬ手落ちに、平穏とは言えない己の心情を見た気がして、笑うしかなかったのである。

「で? なんでここに来た? 待ち合わせとか?」
「いえ。 信じられないみたいですけど、ホントにふらっと入って来ちゃったんです。 一杯呑んだら帰りますよ。 ちょっと部屋に居辛くなっただけなんで。」
「こんな夜中に? 旅仲間と喧嘩でもしたか?」
「・・・・・自分の落ち度に、いたたまれなくなっただけです。」

 初対面の人間相手に、ありえないほど本音を吐いた八戒は、それを自覚して戸惑った。 それを横目で見ながら口を歪め、男が言う。

「そんなに緊張して毎日過ごしてんのか? 疲れるだろ?」
「・・・・・性分です。」
「でもここは、アンタみたいな若い美人が一人で来る店じゃない。 危ないぜ?」
「そうなんですか?」
「そう、たとえば」

 唐突に八戒の唇に触れてきた唇からは、タバコの香りがした。 唇を奪われても微動だにしない八戒に、意外そうな響きを含んだ男の声が間近で聞こえた。

「驚かないんだな。 男は平気か?」
「・・・だから、性分ですよ。 いちいち狼狽して見せるほど素直じゃないんです。」
「ふっ。 面白いな、アンタ。」
「・・・つまり、ここは、そういう店なんですか?」
「色々居るってコトだ。 もっとヤバイのも居る。 他人に素顔を見られたくない奴もな。」

 あくまで揶揄するような口調に苛つきを感じた八戒が、グラスを呷ると氷が舌に触れた。

「一杯、空いたな。」
「ええ。 帰ります。」
「夜道に気をつけてな、美人さん。」
「お気遣い、ありがとうございます。」

 笑顔で言い捨てて店を出た八戒は、月明かりのもと一人肩を落とした。
 どうかしている。 あの店を自分に似合いだなどと、感傷めいた衝動に誘われて入ったのもおかしければ、話しかけてきた男に、思わず本音を吐いたのもありえない。
 自分自身に苛つきながら宿に戻ったものの、まだ開き直るには至らず、結局八戒は、ロビーで眠れぬ一夜を過ごした。
 ―――雨の音が聞こえてきたのは、朝方である。

 彼らが旅に使用しているジープには、幌が無い。 従って、余程のことが無い限り、雨の日は足止めをくらうのである。
 激しく降り落ちる雨音を聞いて、今日はもう一泊、と決めつけた八戒は、じりじりと開き直れる所まで自分をもって行くという不毛な作業に見切りをつけ、こういう時にしか出来ない用事を済ませるべく、動き始めた。
 いくら雨でも、一昼夜部屋に干しておけば、衣類は乾く。 洗濯物が釣り下がる部屋に最高僧が眉間の皺を深くする以外、特に不都合は無いので、雨の為の延泊の時は、たまった洗濯物を片付ける時、と八戒は決めていた。 取りあえずの物を買い揃えたに過ぎない買い物も、こういう時にならキチンと必要な物を検証する事が出来る。
 残念だったのは、今朝、立つはずだった市も、雨のため延期になってしまった事だった。 故に悟浄を叩き起こす必要もなくなり、八戒は早朝から一人で動き回る。
 早寝早起きが身についてしまっている三蔵以外、朝、自ら起きて来るような律義者は、このメンバーに居ない。 ただし、起きているといっても三蔵は、新聞を持って来させて茶を啜りながら隅々まで読む以外、何をする訳でもないのだから、文字通り、単に起きているだけである。

 ともあれ八戒は、洗濯をして部屋にロープを巡らせ、足りない道具や備品の点検をして、不足分をリストアップしたり(これは、後で買出しを頼むのである。)と、それなりに多忙であった。
 部屋から一歩も出ようとしない三蔵は、洗濯物を抱えた八戒を見て、おもいきり眉をしかめ、挑戦的な目を向けてきたが、笑顔でかわして部屋に張り巡らせたロープに洗濯物を掛ける。 簡単で実用的な、嫌味である。
 もう一方の部屋でも同じ作業をしたのだが、二人は目覚める気配さえ無く、高いびきで寝入っている。 こんな状態で妖怪の襲撃を受けたらどうするんだ、と詮無い心配をしながら作業を終え、昼過ぎてやっと起きて来た二人には用事を言いつけると、せいぜい動かしてやる事で、八戒は僅かに腹いせをした。

 一方、こめかみに青筋を立てながら、新聞を隅から隅まで読みきってしまった三蔵は、がさがさと動き回る八戒に不機嫌な一瞥を与え、部屋から出た。
 先ほど八戒から缶詰類の購入を言い渡された悟浄が、そろそろ帰ってくる頃だとふんでの行動である。
 ロビーで茶を啜りながら、さっきとは違う新聞を読みつつ待っていると、重そうな荷物を軽がると抱えて宿に入る赤い髪が見えた。

「おい。」
「あれ、めーずらし―! ンなトコでナニしてんの、サンゾー様?」
「ちょっと来い。」
「え、俺に用? どしたの?」

 宿泊している部屋は、八戒が出入りするかも知れぬので避け、みやげ物などを置いているスペースに、悟浄を誘いこむ。

「ナニよ、三蔵。 ンなトコで、愛の告白とかはナシな。」
「馬鹿者。」
「へーへー、どーせ俺は馬鹿だよ。」
「・・・・俺はサルと同室にする。 後で俺の荷物をサルに持って行かせるから、貴様も荷物を移せ。」
「は?」
「分かったな。」
「って、分かンねぇよ! ナンだそれ。」

 最高僧は、咥えた煙草に火をつけると、目を閉じて眉根を寄せ、こめかみに青筋を立てながら、つぶやいた。

「押し倒せ。 つってんだよ。」
「・・・・・・・。」

 呆然と見返す悟浄を尻目に、三蔵は眉根を寄せたまま、ぷかーっと煙を吹き上げた。

「・・・・・・はぁ?」
「分かりやすい目つき、しやがって。」
「・・・・・あの、三蔵? 言ってるコト、分かってる?」
「鬱陶しいんだよ、てめえら。 早いトコなるようになっちまえ。」
「・・・・・・・・。 プッ・・・。 ククク・・・・。」

 丸くしていた眼を歪め、いきなり笑い出した悟浄を見る三蔵の紫眼に、剣呑な光がのぼった。 眉間の皺が深くなり、こめかみの青筋も増えている。

「貴様・・・・。」
「アハハ・・・、いや、キモチは嬉しいんだけどさ、三蔵サマ。 それ、たぶん逆効果だから。」
「・・・・・・・。」
「そんな、カンタンな奴だったら、俺も苦労してねぇっつーの。」
「そうなのか。」
「うーん、三蔵って、恋愛に関しちゃ、やっぱ理解がイマイチだよな―。 しょーがねーか、チェリーちゃんだもんな。」
「てめえ・・・・!」

 反射的に銃を手にした紫眼に、殺意が光る。

「おっと、・・・いやマジで、ありがたいけどさ。 わり。 もうちょっと、ほっといて。」
「・・・・・どうにかなるのか。」
「するさ。」

 どっちに転ぶか、わかんねーけど、という言葉を呑み込んで、悟浄はニヤリと視線を返す。
 片眉を上げた三蔵が、胡散臭げに悟浄を見た。

「でも、そのうち頼むと思うよ、部屋替え。 そん時はヨロシク。」
「ちっ! 全く。 面倒臭えんだよ、てめえら。」
「でも、俺のほうがまだマシだと思っただろ? だから俺に言うんだよな?」
「あっちには、てめえが馬鹿だという自覚がねぇ。」
「うん。 ソレが問題なのよねー、マジで。」

 どちらからともなく、溜息を付いて、肩を並べて部屋へと戻る二人であった。

 それから暫くして雨は上がった。
 だが、夜を間近に控えたこの時間に出発しても、行程は殆ど進まず、あまり意味がない、という八戒の進言を、三蔵が了承する形で、延泊が本格的に決まった。
 そうなれば、夕食を済ませるとやる事は無い。
 悟浄がいつも通り、夜の町に繰り出して行き、悟空は満腹の時は常にそうであるように、すぐに眠ってしまう。 三蔵が寝入るのも時間の問題ではあるが、それまでの時間、部屋で二人きりになりたくなかった八戒も、珍しくすぐに宿を出ることにした。
 しかし、夜の町を歩きながらも行き先が無い、と八戒は戸惑う。
 昨日と同じ酒場に行けば、悟浄もそこに居るに違いなく、また同席する愚を避けようと思えば、深夜に迷い込んだあの店以外、呑むところは知らなかった。 そこにまた行くのも気が進まず、とりあえず本屋でも冷やかすか、と歩いていた八戒は、道端に立つ、昨夜の用心棒を見かけて、思わず足を止めた。

 用心棒は、壁にもたれるようにして、頬の傷をこちらに向け、立っている。
 背の高い、目立つ容貌の男なのだが、その姿はなぜか風景に溶け込むようで、誰も彼を気にする者などいなかった。 ただその眼差しのみが思いつめたような光を発していて、それが八戒の視線を惹いたのである。
 微塵も動かずにそんな目つきで、いずこを見ているのか、と視線を追えば、その先には一人の男の姿があった。
 薬屋の前で、線の細い、眼鏡をかけた、小柄な男が、笑顔を見せて老婆と話している。 白衣を着ているところを見ると、薬剤師なのだろうか。 柔らかそうな癖毛は銀に近いほどの淡い金髪で、色白なせいか華奢な印象を、八戒は持った。
 老婆に向けられた笑顔は、他意無い優しさを表しており、その様子に声をかけて通りすぎる人も少なからず居る。 それに笑顔で返す様子は、あくまで穏やかだった。
 細身の優しげな薬剤師は、町の人に好かれているらしい。
 傷の男に視線を戻すと、飽きず同じものを見つめつづけている横顔が、痛みに耐えているようにも見え、彼の心情が手に取るように分かる八戒は、しばし己と重ね合わせる想いで、男を見つめていた。

 明らかになにか特別な想いを抱えて放つ視線。
 誰にも見られていない、と確信できる時があるなら、自分もきっとあんな目をして悟浄を見るんだろうな、などと詮無い事を考える。 だが、その姿が個人レベルの秘密に位置するものだと気付いた八戒は、それを盗み見る事に罪悪感を覚えて、その場を離れた。

 当初の目的である本屋を見つけ、暇つぶし用に何冊か本を求めてからも、八戒は店内をぶらぶらする。 本好きの八戒は、ここでなら何時間でも過ごせる自信があった。 だが、書店などと言うものは、そう遅くまで営業していないものだ。
 三蔵の就寝時間を少し過ぎた頃、致し方なく、というか追い出されるようにそこを出て、これからどうしよう、と八戒は途方にくれた。
 やはり昨日のあの店に行ってみようか、と八戒は考える。
 今日は二度目だから、昨夜ほど嫌われる事もあるまい、などと希望的観測を多量に含めて結論を出し、否定しようとする自分に、きっとそうだと言い聞かせながら、足をあの奥まった小路へと向けた。 先ほど見かけたあの用心棒の眼が、脳裏から離れなかったのも、こうまであの店に拘る理由であろう、と八戒は自分で分析し、いちいち理由を欲しがる自分を、度し難い、と笑う。
 何度か迷いながら、たぶんこっちだと見当をつけ、歩を進める八戒に、聞き覚えのある声が掛かったのは、やっとあの店の近くまで来た時だった。

「おい、あんた。」
「おや、貴方は。」

 振りかえって視界に入ったのは、あの店の用心棒だった。
 さっき見かけた時の、思いつめたような熱は、すでにその眼差しに無く、何の感情も映さない無機質な視線が八戒を射る。

「まさか、またウチの店に来る気か? 悪い事は言わん。 やめとけ。」
「いや、なんか、行く所が無くて。」
「この時間なら、酒を呑ませる所は他にもある。 あそこでは、歓迎されないだけじゃないぞ。 何でそんな無防備なんだよ、アンタ。」

 実のところ、自分の戦闘能力に自信があるが故に、どこに行こうが怖くは無い八戒である。 旅の恥は書き捨て、という図太さもある。 だが、男にはそう見えないらしかった。
 見くびられたと感じ、八戒は少し意地の悪い気持ちになって、横目で男に一瞥を与えながら、あくまで笑顔を保って言った。

「貴方、さっき薬屋さんを見てたでしょう。 お知り合いなんですか? なぜ声をかけなかったんです?」
「おまえ・・・」

 棘のある八戒の言い方に、無機質だった目元が赤く染まった。
 なぜこの男にはこうも素直にあたってしまえるのか。 理由はおぼろげに八戒の中にあったが、それと自覚する前に、ほぼ初対面の人間に対して言うべき言葉ではなかった、という後悔が走る。 表情にもそれは表れたらしく、それを見て取って、男は小さく溜息をつくと、無骨な顔を正面に向けた。

「・・・・スミマセン。 言いすぎました。」
「・・・昨日といい、アンタ、何かあったのか?」

 また、無機質な視線を向けて問うた男を見て、自制の力が強い、と感じ、ひるがえって自分は、と思うと情けなくなった八戒は、恥じたように俯く。 そのまま言葉を発しない八戒の肩に手を置き、男が言った。

「呑める店、教えてやる。 付いて来な。」

 そのまま先に立って踵を返した男に、しょうがない、と諦めて、八戒も後を追って歩き始めた。 やがて肩を並べて歩きながら、物陰から白衣の男を見ていた眼差しを思い浮かべ、八戒はやはりどうしても知りたくて、何度か呑みこんだ質問を口にした。

「あの薬屋さん、どういうお知り合いなんですか?」

 横目で一瞥を与え、頬の傷に手をやりながら、ぼそっと男が言う。

「コレを付けたヤツだ。」

 思わず見返した八戒に、ニヤリと片頬だけで笑って見せ、男は正面に顔を戻した。 またも表情はなにも映さない。 頬に一筋、走る傷が目に入った。 
 それに目をやって、瞼を伏せ、やはりこの傷が、自分をこうまで率直にしているのだ、と八戒は自覚する。 その上この男は、無骨ながら優しい。 そんなところも、似ているではないか。
 悟浄当人には言えない言葉も、似て非なるこの男になら言える。
 そのまま、全部吐き出したくなって、八戒は呟くように想いを口にのぼせた。

「・・・左頬に傷のある男を知ってるんです。」

 ん? という顔をして、男が八戒を見返した。

「僕の友人なんですけど。」
「ふん?」

 進行方向に視線を定め、八戒が続ける。

「彼にその傷をつけた人は、彼が最も愛して欲しい人だったんです。
 ・・・・不思議なんですよ。 荒事が得意で、怪我なんて日常茶飯事、大怪我する事も何度もあったのに、・・・本当なら身体中、傷だらけのはずなのに、とにかく丈夫で怪我もすぐに治っちゃうんです、彼。
 だから目立つ傷跡って、その、頬の傷だけなんですよね。」
「・・・・・・。」
「想いが深いと、そうなるのかなあ、なんて思ったんです。 きっと、その傷が付いた時、彼の心もありえないほど深く傷ついてしまったんじゃないか、と。 そのせいで、そこだけ跡が残ったんじゃないかなあ、なんて、ね。」
「オレもそうだと言いたいのか?」
「いえ、ちょっと思い出しただけです。」
「・・・・アンタ、もしかして昔、赤毛のアンとか読んだ?」
「一応・・・・・読んだ事はありますけど、なぜです?」
「少女趣味な事、言うからさ。」
「心外ですねえ。 心的要因が身体に変化をもたらす事って、結構あるんですよ?」
「変なヤツ。」

 男の顔が、苦笑気味に歪んだ。

「ココロが傷ついたから跡が残る、か。 ・・・・・ふん。」

 唐突に歩みを止めると、男は八戒の腕をつかみ、ぐい、と引いた。 不意を付かれて体勢を保てず、八戒の身体が反転すると、そのまま男は横道の壁にその背をあずけた。 八戒の身体もそれに引きずられ、男が抱きとめる形となる。
 街灯の明かりが届かない壁際で、男の唇が八戒のそれを覆った。
 数秒の後、唇を離したそのままの状態で、お互いの目も見えない至近から、男が呟くように言う。

「もっと用心した方が良い。」
「・・・・・油断しました。」
「ふっ。 ツラッとしやがって。」
「言ったでしょう? 性分ですよ。」
「アンタ、その男のこと、好きなんだろ? 片想い?」

 いつのまにか男の二の腕に触れていた手を伸ばして、相手の顔が見える位置まで身体を離すと、八戒は笑顔で言った。

「・・・そっくりお返ししますよ。 武士の情けで言及を避けてあげたのに、そう来るんなら僕も突っ込ませてもらいますけど。」
「・・・・・・?」
「貴方こそ、あの方を愛してるんでしょう? 癒えない傷が残るほど深い傷を心に抱えて、貴方は戦場へ行った。 ・・・違いますか?」
「・・・悪いか。」

 再び乱暴に引き寄せられ、唇を吸われた。 今度は濃厚で、官能を呼ぶ事を目指した長いものだ。
 数十秒後に唇が離れた時、八戒の息は若干荒くなっていた。 壁に体重を預け、抱き合った形のまま、男が低い声を出す。

「その角を曲がったら、呑める店がある。 そこに寄って、宿へ帰れ。」

 八戒の腹に、硬くなった男のものが当たっていた。
 自制の強い男だ、と再度思う。 だが自分はそうではない。

「帰りたくない・・・・・ですねえ。」
「じゃあ、どうする。」
「・・・・・貴方、僕より背が高い。」
「似てるのか、俺は?」
「・・・・・頬に傷があるし、それに・・・・」
「それに?」
「・・・・・・優しい、でしょう。」
「ぬかせ。」




 この町はダメだな、と悟浄はため息をついた。
 昨日に続いて、今日も女に逃げられたのだ。 二分ほど前に、知り合いが居たとわざとらしく声をあげた女が、

「じゃあ、また今度ねぇ!」

 と、元気良く去って行ったのは、宿泊を目的としない、恋人達が使用する類のホテルの前である。
 そんな事ならここまで来る前に言ってくれ! などと思いながら、ホテルの入り口が見える壁際に身体を凭せ掛け、煙草を一本灰にした。 所在無く次の一本に火を点けた時。
 見覚えのある顔が、見知らぬ背の高い男に肩を抱かれて、その入り口にゆっくりと近づくのが目に入った。

「・・・八戒?」

 何か話しかけたのか、八戒が頭部を動かすと、相手の男のほおに目立つ傷があるのが見えた。 二人はそのままホテルに入っていく。 雰囲気は、恋人同士のそれだ。

「・・・・・・・。」

 持っていた吸いさしの煙草が地面に落ちたのも気付かず、呆然と悟浄は入り口を見ている。 もうそこに黒髪の同居人は見えないにも拘わらず、視線を動かす事が出来ない。
 気が付いてはいた。
 八戒が見知らぬ男と連れだって消えるのを目にした事は、一度ならず、ある。
 そんな夜は、八戒の帰りが深夜に及ぶ事も、気付いていた。 だが、深く考える事を避けていた。
 旅先の気安さで、気の合った者同士、もう一軒とはしご酒をするのは不思議じゃない。 イイ大人である八戒に対して、余計な詮索をしたくなかったというのもある。
 だがそれ以上に、考える事が恐ろしかった。 当然出るであろう、もう一つの結論を、認めるのが嫌だった。
 だが、これはもう、自分を誤魔化すのも限界、である。

 ―――八戒は、時々、そこら辺の男と、ヤッてる。

 そう認識するしかない。
 そこまで考えて、頭の芯が急激に加熱したのが分かった。 悟浄の頭の中で、様々な光景、言葉、想い、が交錯する。 これまでの自分の行動。 何か、間違っていたのか。 いや、違う。 間違ってるのはあいつだ。 いや、そうじゃない。

 ―――なんで・・・・・

 呆然と立ち尽すうちに、夕方に止んだはずの雨が、再び降り始めていた。 小糠雨に濡れても、加熱した頭は冷めてくれない。

 ―――なんでだよ!

 殆ど意味をなさない自問を繰り返しつつ、悟浄は宿へと戻る道を辿っていた。
 部屋に入ると濡れた衣類を脱ぎ捨て、髪を拭きもせずにベッドに倒れこむ。 頭の芯にこもる熱はいつまで待っても冷えそうに無い。
 これは、怒りだ。
 そう、自覚して、枕に顔を押し付けた悟浄の肩が、わずかに震えていた


 


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