『思慕のウラハラ 世迷いごと。』2005.03.23

 



 負の波動により、妖怪達が暴走を始め、僕等は旅立った。

 ・・・西へ。


 メンバーは四人。

 とてもそうは見えないけれど、仏僧としては最高位を占めている、玄奘三蔵。
 僕に生きる言い訳をくれた人だ。

 どう見ても十四〜五歳に見えるけど、十八だと自称する、孫悟空。
 僕の下らない思いこみを、乱暴に突き飛ばして笑い飛ばす。 この子には頭が上がらない。

 一見、チンピラホストか肉体労働者。 自称モテモテのギャンブラーである、沙悟浄。
 言い訳を貰っても、笑い飛ばされても、無自覚に破滅への道を引きずられていた僕を、破滅を恋焦がれるように追い求める自分と忌避する自分の狭間で、繰り返し悪夢を見る僕を ・・・・・・僕自身、気付かないほど少しづつ・・・救ってくれたのは彼だ。
 ―――今の彼は知らないけれど・・・凄く、ものすごく狭い意味で僕は彼を一方的に
 愛して、いる。


 ・・・そして僕、猪八戒。

 この名前になってから、三年になる。
 耳になじんで来た名前だけれど、それでも以前の僕――猪悟能――は常に、八戒である僕の内にあって、密かにこの僕を脅かし続けていた。 それを自覚無しに受け止めて、ここまでの時間を過ごして来てしまったのだろう。 激しい悔悟と共にそう思い至ったのは、旅に出て暫くしてからの事だった。
 気付いた、と言った方が正しいかもしれない。

 そう、気付いてしまった。
 僕が僕の意思でしたと思っていた事は、全て『悟能』の意思だった? それは八戒を、自分自身を、・・・この体を無にする事こそを望んでいた・・・? そしてそれに動かされてしまったのが、この僕、猪八戒なのではないのか? 自らの意思を、みじめに黙殺されて。
 だから、生きる術を持つ事を嫌い、与えられる好意を蹴散らし、自己嫌悪を育て。
 ―――愛される事を拒んだ。

 『遅いよ。 今になって気付いても。 ・・・・・・もう・・・・・・遅い。』

 彼方から発して直接耳の奥に響くような微かな『悟能』の声が、嘲い(わらい)を含んでそう言ったような・・・気がした。




           ―――― 思慕のウラハラ 世迷いごと。 ――――

          The Right & Reverse Side of Love ... is a Puzzle





 旅に出てから、それまでとは較べものにならないくらい、僕等は日の光にさらされている。 元々浅黒い肌の色をしていた悟浄は、より黒くなった。 それまでも僕等の中ではもっとも日の光を浴びていただろうと思われる悟空は変わらず。 僕も、妖怪になるという事は、こういう事なのか、と納得しつつ、いつまでたっても焼けない肌を見ている。 以前、ヒトであった頃は、あまりに強い太陽にさらされると、赤くなってヒリヒリと痛みを訴えていた肌が、今は何の変化も見せない。
 三蔵というヒトは、本当にただの人間なのだろうか、と疑問を感じるのはこんな時だ。
 彼は、変わらない。
 白い肌はどんなに太陽にさらされても、あくまで白い。
 死の淵をさまよっていても、その肌は瑞々しく、金糸のように輝く髪がそれを縁取る。
 そして何があっても、自尊を失わない紫の瞳。
 精神面、体力面、どちらをとっても、彼は人間の範疇を超えている。 僅か十四歳で最高僧である三蔵を襲名したのも、尋常ではない。 更に言えば、拳銃一丁で夜盗蠢く奥深い森をさまよい続けたという数年も、人間業とは思えない。
 僕が寺で実際に目にした、処理能力の高さも信じ難い物だった。 常人なら三人掛かりでも辟易する量の仕事を、眉間の皺を深くしながらも彼は、一人でこなし続けていたのだ。
 この旅を共にして、人間離れした彼を見るに付け、やはり彼はただの人間ではあるまい、と僕は結論した。
 と、いっても、妖怪ではあるまい。
 たぶん神とか、そういう類の何かが、彼の血の中に流れているに違いない。 そうでなくては、人間として考えた時、人知を超えるあの強靭さは説明できない。
 彼は河に捨てられていた子供であった、という。 その話を聞いて、僕は想像した。
 ・・・・彼をそこに置いたのは、ヒトではない、なにかもっと神聖な存在だったのではないか。

 思えば僕等は、そんな『ちょっと違う』者の集まりであると気付く。

 悟空は大地の精霊のように、無垢で仁慈にあふれ、曲がる事を知らない。 あの小さな身体のどこに、と驚かざるを得ない膂力。 生物として常軌を逸している食欲。 どれをとっても、普通じゃない。
 悟浄の丈夫さも、人知を超えている。 心臓のすぐ脇を打ち抜かれても、傷を塞いだだけで動き回れるのは生物としておかしい。 そして、ボランティア精神に富んでいるとは思えない人となりなのに、自分の利害を度外視して人を思い、行動せずにいられない、その情の深さ。 こっちの方も、尋常じゃない。
 かくいう僕も、ヒトから妖怪になった奴なんて、そうは居ないという意味で、充分、人とは違う。
 (作者注:八戒以外の三人には、それ以外にも言いたい事は、山ほどあると思いますが、ここは八戒の独白なので省略です。)

 そんな僕等は、それなりに楽しい旅をしている。
 こんなに他人と行動を共にするのは初めての経験だが、面子がこんなモノなので、ある意味気楽でもある。 一つ問題があるとすれば、僕がいつのまにか、そんな滅茶苦茶なメンバーのまとめ役を拝命してしまったらしい、という事だ。 無論、辞令を受けた訳でもなんでもないけど。
 本来この旅の仲間をまとめる職責は、三蔵にあるはずだが、彼はそれを負おうという意思の片鱗も見せない。 それはどうかと思っても、混乱する事態をどこ吹く風と煙草をふかす彼に、取り付くシマはない。
 悟空はともかく、悟浄にも期待できない以上、僕がやるしかないではないか。
 いつのまにやら、宿を取るのも必要な物を買い揃えるのも僕の役目になっているし、宿泊が決まってから、旅を続けるのに必要な行動を起しているのも僕。
 ルートを決める時は三蔵が最終決定を下すものの、それを導き出すための情報を提供するのは、やはり僕の役目になってしまっている。 野宿が決まっても、食事の用意や野営の段取りなど、僕が仕切らざるを得ない。 三人は僕がそれを済ますのを、得手勝手に待っているだけで、手伝おうともしないのだから。
 これでは僕はまるで、修学旅行の学級委員か指導教員だ。
 いや、度重なる悟浄と悟空の幼稚な諍いを見ている限り、保父さんと言うところか。 ・・・・そんなこと、自覚しても全然嬉しくないけど。
 日中はジープを運転し、夜になればそれらの手続きを一手に担い、部屋では気難しい最高僧が、安眠を妨げるなとキツイ視線を向けてくる。 嫌いな訳でも、苦手な訳でもないけれど、息抜きぐらいしたくなるのは人情、と許してもらえる範囲だと思う。

 ただでさえ、旅先で寝る場所を確保するのは、一苦労なのだ。
 西へ西へとジープを進めるうちに、道はどんどん人里を離れ、道無き道を行く事もしばしば。 そうなると当然、野宿が多くなる。
 だからちゃんとした宿に泊まれる時は、みんな心なしか表情が緩む。 とはいっても、四人とも個室を取れる事は稀で、大抵は四人相部屋とか、ツインが二部屋とかで眠る事になる。
 四人で同室の時などは、最高僧の眉間の皺は深くなるし、赤毛のドンファンは一夜の温もりを求めて姿を消すし、少年の高いびきは安眠を妨害する事おびただしいし、で、布団があるだけマシだと自分に言い聞かせるしかない。
 でも大抵はツインを二部屋取れる事が多くて、そう言う場合、長年の寺暮しで早寝早起きが身に付いてしまっている三蔵は、意味無く騒がしい悟空や、夜更かしの悟浄との同室を嫌う為、勢い僕が相方になる事が多くなる。 でも三蔵は、いつもすぐに――八時を過ぎると眠気を訴えるのだ!――眠ってしまうので、その眠りを妨げまいと思えば、おとなしく読書でもしている他、ないという事になる。 けれど、それもどうかと思う自分が居て。
 安眠の邪魔をして、翌日、三蔵の機嫌が悪くなるのは面倒だ、とは思うが、かといって、八時過ぎに眠れるものではない。
 だから僕は、気晴らしも兼ね、寝入った三蔵を後にして、夜は出かける事が多い。
 大抵は酒を呑みに。
 宿にバーなどがあれば、そこで済ませる事もあるが、小さな町の宿ではそれを望め無い事が多く、僕はよく酒場へと足を向けた。
 酒場に行くのは、気晴らし以外にもメリットがある。
 その土地の、地元の人だからこそ知っている情報を、それとなく聞く事が出来るのだ。
 例えば、近く祭りがあるとか、市が立つとか。 隣町までの、一番行きやすいルートとか。
 そしてその町での妖怪の動向なども、酒場でなら存外簡単に知る事が出来た。 そういう情報は、次の日からの旅に、すぐに役立つ物だ。 そんな理由もあって、僕は結構、酒場に足を向けていた。
 大抵は小さな町だ。 夜中に遊ぶ場所も限られ、当然、全く別の理由で、同じように夜の町に繰り出している悟浄を、見かける事もある。 自然ななりゆきだ。
 三年、彼とは生活を共にしていたが、生活時間も習慣も異なっていた為、夜の町を徘徊する彼を目にする事は、それまで殆ど無かった。 ・・・だから、彼のそんな姿を客観的に見たのは、始めての事だった。

 僕が一方的に気付いた。
 店に入ると同時に目立つ赤い髪を認識して、僕は次の瞬間、訳の分からない感情に占有されている自分を自覚し・・・衝撃・・・を受けた。 ・・・いや、とまどった、のか。

 彼は女性を相手に何事か話し込んでいた。 かすかに笑う形に開いた口で、首を伸ばし、女性の耳元で囁いている様が、いろっぽかった。 赤い瞳が欲を孕んで誘うように女性を見る。 ハスキーな声が少し低くなって甘い響きを放つ。 骨ばった大きな手が、女性の肩を、腰を、さりげなく撫でまわす。 ・・・・全身が暖色のオーラを放ち、僕の視線を釘付ける。
 周りにあるあまたの人影はかげろうの様に実在感が無く、ひとり悟浄の姿だけが、僕の目に飛びこんできた。 それと同時に、知らず昂ぶる自分の下腹部を意識して、僕は激しく戸惑ったのだった。

 ―――僕は、あの声を耳元で聞いた事がある。
    僕は、あの視線を独占していた事がある。
    僕は・・・あの手で・・・

 それを確とした意思を持って手放したのは他でもない、僕自身である。
 見よう見真似の催眠術で、悟浄から、僕と愛し合った記憶を抜き取ったのだ。
 正直、信じ難いほどに悟浄は暗示に掛かりやすく、僕の計画はありえないほど上手くいってしまった。
 悟浄は僕と恋人だった事を覚えていない。 そうなれば、元々女性には目の無い悟浄の事だ。 彼の生活は『キレイなおねーちゃん』中心に、あっさりと変わってしまった。 見事と言いたくなるほど完璧に、彼は僕を愛した事を忘れた。
 自分の催眠術を褒める気持ちには、絶対になれないけれど、ともあれ、自分で望んで、自分でした事である。 その上でこの身は何を欲するのか。
 そう自問しても、身の内に湧き上がる感情を押し殺す事は至難の技だった。
 更に言えば、身体に起こった生理現象をどう受け止めたものかという戸惑いも大きく、それを打ち消そうと僕は酒を呷った。 酔う事の出来ないこの身を呪いながら、・・・忘れる事の出来ない自分を憐れみながら。
 それでもこれが一番よい道だったのだと、その時は信じる事が出来た。

 ―――自分さえ少し我慢すれば、彼とは親友でいる事が出来る。
    それこそを、僕は望んでいたのだから、今は耐えるしかないのだ。

 そう信じていたから、僕は自分を制する事が出来た。 多分その頃はまだ、僕の中の悟能が機能していて、己の仕出かした結果として在るこの事態を、甘んじて受け止めるだけの精神力、を八戒に貸し出していたのだろう。

 そして、闇の中で僕を苛むそんな想いも、太陽の光には抑えこまれるようだった。
 昼間はよっぽどの事がない限り、僕は悟浄をそういう目で見ずに済む。 悟浄が、僕達相手に無闇に色っぽくならない、と言うのもその理由だし、日の光の下では、暗い色彩を持つ欲望も、影を潜めるらしい。
 稀に若干の動揺を覚える事があったとしても、多少の事なら僕は押し殺すことができると自負している。 だからみんなには、僕の悟浄に対する心情は、知られてはいないはずだ。

 夜になって、酒場で女性と戯れる悟浄を見かける事は、その後も何度となくあったが、僕は同じ様に自分に言い聞かせる事でその場をしのいでいた。 それが可能だった。

 それが叶わなくなったのは、つい最近の事だ。
 皮肉な事に、旅に出て暫くしてから、僕は猪悟能の呪縛から解き放たれた。 清一色などと、ふざけた名を名乗る過去の亡霊との決別と共に、僕は猪悟能から実質的に開放されたのだ。

「違いますよ。 僕は、猪八戒です。」

 亡霊を破壊する時に、そう自覚する事が出来た。
 僕は過去だけを見る生き物じゃない。 これからを考えるために八戒になったのだ。 そう、僕はあの亡霊とは違う。 何かを変える事が出来るのだ。 僕は生きているのだから。 もう、暗い黄泉の世界に誘われる事も無いだろう。

 ―――もっと生きて行きたい。

 生命線が短い事を残念に思う程度には、そう考える事が出来るようになった。

 だが。
 そうなって始めて、改めての衝撃を覚えたのは、次に泊まった町の酒場で彼を見かけた時だった。
 いつもの通り、悟浄は女性と共に居た。 欲と熱を孕んだ紅の瞳。 褐色に焼けた、大きくて骨ばった手。 甘さを伴う、低い声。 動くたびに揺れる、紅に燃える髪。
 何度も見かけた光景だ。
 それまでは、この身に生じる生理的な変化と内奥を揺るがす精神的な渇望を、僕は押し殺しす事ができた。 それは容易とは言えないまでも、可能な事だった。 けれど、悟能の呪縛から解き放たれたと同時に、自覚無しに借り出していた意志の力を失ってしまっていたその時の僕にとって、それを目にする事は耐え難い試練になっていたのだ。

 ―――僕のものだったのに。 あの髪も眼も、手も声も、僕だけのものだったのに。

 あさはかにも猪悟能の声に惑わされ、凝り固まってしまった自分の決断のみで、彼の心まで変えてしまった自分の所業が、抗い難い激しい悔悟の念となって自分に跳ね返ってくる。

 ―――全ては済んだ事だ。 ・・・いまさら、どうしようも無いではないか。
    自分で望んだ形だ。 その上何を望む?

 何度自分に言い聞かせても、湧き上がる強い感情とそれに派生する身体の変化・・・心拍数の増大や激しい発汗、そして下腹部の昂ぶり・・・を抑える事は叶わない。
 それが不可能なら、やり過ごして自分を誤魔化すしかない。
 酒を呷り、酔わない自分を呪って、宿に帰ると今度は読書に没頭してみる。 しかし目では字面を追っていても、内容が脳髄に納まらなかった。 そこには他の感情がありえない存在感で居座っており、文字情報ごときの入りこむ余地は皆無だったのだ。 その感情――強い思慕と激しい後悔――はすっかり僕を支配していて、それを逃がして誤魔化そうとする事に使役される為に精神力は大量に消費された。
 そんな夜が三日も続くと、僕の精神力も底をつきかけ(これに定量があるなんて知らなかった)、やがて体力や集中力すら奪うようになった感情に翻弄されて、僕は夜毎、夢を見るようになってしまった。
 過去に僕を苛んだ血塗れた夢を見るわけではない。
 その夢は、甘い記憶だった。 悟浄に愛された記憶。
 あの手が僕の肌の上をさまよい、唇が印を残す。 紅い髪が僕の上で揺れて、滴る汗と共に僕の上に落ちてくる。 低いハスキーな声で、僕は名前を呼ばれている。 この身を刺し貫く強い快感。 身も心も満たされる瞬間。
 ・・・夜中に目覚めて、己の血流が体内に熱をもたらしているのを知り、それに触れて自分を慰めながら、僕は泣いた。 あまりにも辛くて、自分がみじめで・・・・。 同室の三蔵を起さないように、声を殺して僕は泣いていた。 いつかの悟浄のように。

 そして僕は、夜に宿を出る事を止めた。
 万が一にも彼のあの姿を、目にしたくなかった。
 土地の情報を得る目的など、どうでもよくなった。 こんな風に過ごす夜は、耐えられない。 まして、悟浄を含めて、他の仲間に悟られるのだけは避けなければ。 ・・・それだけを考えて、僕は旅を続けていた。




「三蔵、下がって!」

 拳銃を放ちつづける最高僧の背後から、一匹の妖怪が襲いかかって来るのを目の端で認め、僕は声をあげながら手のひらに気を溜め、妖怪と三蔵の間に身体を滑り込ませた。 妖怪が振り上げた刃は僕をかすり、三蔵には届かない。

「哈っ!」

 次の瞬間、放った気が、目前に迫った妖怪を弾き飛ばす。

 刺客と思われる妖怪達が僕等を襲うのは、この旅を始めてからは常の事だが、こうまで三蔵だけに攻撃が集中するのは初めての事だった。

「うおおおお!」

 僕が弾き飛ばした妖怪を、悟空が追って致命傷を与えている。

「お前等、この俺様を無視して、どこに行くつもりだよ!」

 悟浄は少し離れたところで錫杖を振りまわし、三蔵から敵を離そうとしている。
 この事態は、敵の目的が三蔵の肩にかかる経文である事を、如実に物語った。 今までは、徹底されていた訳ではなかったのであろう情報が、全員に行き渡ったと言う事か。 ともあれ、僕等三人は、今や三蔵を(というか、経文を)守るべく戦っていた。 だが、人海戦術に転じたらしい敵の数は今までに無く多勢で、四方八方を囲まれた上、倒しても倒しても、次々と襲い掛かってくる。 悟空はひとところにじっとしてはいなくて飛びまわるし、自分のほうに敵を引き付けようとしていた悟浄は、あくまで三蔵に向かう刺客達にキレたのか、錫杖を放り投げて肉弾戦に突入するし。
 で、勢い、僕が三蔵の至近で彼を護る形となっていた。
 気孔というのは、狭い範囲に集中してやれば少ないパワーでも破壊力を保てるのだが、広げた場合、それに破壊力を持たせるにはそれなりに溜めこんで撃たなければならない。 だが、この状況ではそんな時間も無く、どうしても弾き飛ばすだけに終わるところを、三蔵や悟空や悟浄が、各個撃破しているという戦況である。

「邪魔だ! どきやがれ、八戒!」
「ああ、スミマセンね。 でもそうもいかないので!」

 何故か『護られる』事を極端に嫌う三蔵が、キレて僕の背後から拳銃を撃ち続ける。 振りかえって三蔵を見ると、悟空の追撃を逃れて三蔵の背後に迫る一匹が見え、それを気で撃ち殺すと、自分のすぐ後ろに迫るもう一匹に肘打ちを喰らわせた。 僕が弾き飛ばしたそれを、三蔵の銃が撃ち抜く。
 砂漠のオカマ蠍の時の例を出すまでも無く、三蔵は(とてもそうとは思えないけど)まごうかたなき普通の人間で、僕等三人に較べると傷を負った時の回復にも時間が掛かるし、死んでしまう可能性だって一番高い。 妖怪達が三蔵を直接狙うのは、実に合理的な結論である。 だからと言って感心してやる訳にもいかないので、僕はせいぜい気を広範に渡って撃つようにして、三蔵の至近に敵が迫るのを防いでいた。
 そんな訳で、ずっと気を放ち続けていたため、僕の体力は限界に近くなっていた。 広範に撃つために、だんだんと所要時間が必要になって来る。 そうして気を放つ間があいた時、三蔵に三方から襲いかかる刺客を見て、間に合わないと悟った僕は、咄嗟に三蔵に覆い被さった。

「馬鹿! 何して・・・!」
「八戒!」

 耳元で三蔵の声が聞こえるのとほぼ同時に、遠くで叫ぶ悟浄の声が耳を打ち、背中に熱い衝撃を感じた。 痛みは感じず、ただ息が止まる。 その刹那、ハスキーな叫び声と共に、頭の上を三日月型の刃物が鎖に誘導されて飛び、断末魔の悲鳴を耳にした時には、血飛沫が僕の背にかかっていた。

「八戒!」
「うわああああ!」

 再び悟浄の叫ぶ声が聞こえ、獣のような叫び声と共に悟空が周辺を飛びまわっているのが分かった。 それを感知しながら、背中の傷が熱いと思った。 やがてそれは痛みに転じ、全身を網羅する血流が流失して行くのが分かった。 傷はずきずきと脈動を伝え始めていた。
 それでも、こうしている訳にはいかないと思い、痛みを堪えて立ちあがろうとすると、身の下から伸びてきた腕に襟首をつかまれ、僕はまた身体を倒してしまった。

「ふざけるなよ、この野郎! なにやってんだ貴様・・・・!」
「三蔵、そんな事言ってる場合じゃ・・・・・」

 言いながら三蔵は僕の背後に向かって銃弾を放ち、断続して断末魔の悲鳴が耳を打つ。

「てめえにそんな事される筋合いはねえ!」
「八戒!」

 みたび悟浄の声が聞こえた時には、三蔵の腕を振り払って僕も立ち上がり、次の敵に備えて手のひらに気を集中していた。 だが、時間がかかる。 痛みで集中力が弱くなっているようだ。 眩暈を感じ、身体のふらつきを自覚する。 正直、周りに目を配る余裕も無い。 ふと気付くと、僕は地べたに膝を付いていた。
 立っているつもりだったのだが、身体がいう事をきかなくなっているらしい。

「八戒!」

 今度は至近で悟浄の声が響いた。 珍しく余裕の無い声を出している。 いつだって声だけは余裕を保っている彼なのに。
 浮遊感を感じたかと思うと、紅い髪が僕の上で揺れているのに気付き、抱き上げられたのだと僕は知る。 目を上げると紅い瞳が僕を見下ろしていた。 怒ったような、切ないような、余裕の無い目の色。 たぶん、一瞬でしかなかったろう見詰め合った時間に、僕は思い出していた。 いつだったか、見た事のある眼だ。 ああ、あれは、僕が出てくって言った時だっけ・・・・・・・。
 こんな場合なのに、僕はそんな事を思い出して、一瞬笑った。

 ―――悟浄、怒っているのかな。
    ・・・もし死ぬんなら、一言、彼に言いたいなあ。

 しかし意識を保つのが困難になって来ていた。

 ―――悟能、君の勝ちだ。
    僕はもう、自分の命を惜しいとは思えない。
    君が望んだ通り、黄泉へと誘われる日を待ち焦がれていたみたいだ。
    死こそが、この・・・過ちを犯した苦しみからの解放・・・・・・ 




 死屍累々と横たわる中、呆然と立ちすくむ三人の姿が見える。
 意識を失い、血だらけのままうつぶせに倒れている八戒に、おずおずと手を触れた悟空が息を呑み、震える声で、

「大丈夫、八戒、生きてる。」

 と呟くように言った。 それに答えようともせずに、三蔵は視線を彼方へと飛ばし、悟浄は

「あったりめーだ、バカ猿。」

 と、吐き出す。
 そのまま誰の目も見ずに、踵を返してジープへと向かい、荷物を持って戻ってくると、ごそごそと荷物の中から医薬品類を取り出して、応急処置を施し始める。
 いつも治療を担当していた張本人が倒れた今、施せる手当ては限られていたが、それでもなんとか止血をした状態で悟浄がジープを暴走させ、後部座席には八戒の身体に振動を伝えまいと、悟空がその身体を抱いて陣取った。 眉間の皺を深くして、紫眼に剣呑な光を湛える三蔵も言葉を発する事は無く、沈黙が車上を支配する。 そうして次の町に着いたのは、日の暮れようとする頃である。

 まずは医者を求めてジープを走らせる悟浄に、最高僧は冷たい視線を向け続けていた。 眉間に刻まれた皺はあくまで深く、侮蔑と憎悪を含んだ紫の視線は、ひたすら冷たい。
 それには気付かない悟空も、思いつめた目をして意識を取り戻す事のない八戒の青ざめた顔を見、早くて浅い呼吸を感じとりながら、黙ってその身体を抱いている。
 道行く人に、怒鳴って病院の有無を聞いていた悟浄は、その所在を知ると、街中であるにも拘わらずジープを暴走させ、医者の元に急行した。 そこで治療を施され、命に別状はないと診断を受けても、悟空の目の色は変わらず、三蔵の眉間の皺が浅くなる事も無い。 それでも泊まる場所は定めなければならない。 まずは怪我人を安静に保つ事が必要なのだ。

 宿を探す段になって、また一つ問題が起きた。
 意識不明の怪我人を連れた、剣呑な雰囲気の男三人に上等な宿泊場所が提供される事は無かったのだ。
 三蔵は黙したまま視線をあらぬほうに向けるのみなので、悟浄が宿の交渉を行うのだが、常の愛想の良さはどこへやら、剣呑な目つきで最小限の文句しか吐かないので、宿のフロントは怯えて、部屋は無いと繰り返すばかりである。 三軒目の宿で断られるに至って、いつも如才なく交渉事を引き受けていた、今は意識のない怪我人の存在が、三人の上に重くのしかかった。
 結局、なんとかとれた宿は、いかにも古びた安宿である。
 しかも、長髪にエプロンを付けたガラの悪いフロントが、口元にからかうような笑みを湛えながら提供した部屋は、四人同室の一部屋であった。 結果、男三人、重い沈黙のみが支配する部屋で、怪我人を見守る破目に陥ったのであった。
 さらに、三蔵から送られる氷の如き視線を、とうに感じ取っていた悟浄と、その視線の主の間には、緊張感がある。 まともな食事も摂らぬまま、重い沈黙を過ごすうち、それと気付いていなかった悟空にも伝わってしまうほどに、その空気は強まってきていた。
 旅を始めて以来、三蔵と悟浄の間に緊張感が漂う事はしばしばあり、何度か味わった空気ではあったが、それを緩和させていた当人がこうなってしまうと、三人だけでは空気が変わらない。 常であればとうに就寝している三蔵の放つ不機嫌なオーラは、悟浄の神経を逆なで、悟空を怯えさせた。

「あんた、護られたのが嫌だったんだろ。」

 沈黙を破って、唐突に紡がれた悟浄の言葉は、この空気を打破する、いわば起爆剤であった。

「黙れ。 貴様こそ何だ、取り乱しやがって。」

 不機嫌と書いたような顔と声で、三蔵が久々に声を出す。

「なんの事だよ。」
「分かってねえなら、別に良いがな。」
「なんだよ! ヒトを馬鹿みたいに言いやがって!」
「実際、馬鹿なんだろうが! 甘んじて受けろ、馬鹿が!」
「つーか、ナニ突っかかってんだよ! てめえが面白くねぇからって俺にあたんなよ!」
「貴様が気にくわねえんだよ、大馬鹿が!」
「俺がナニしたっての?」
「何にもしなさ過ぎだろうが!」
「だからナニが!」
「単純馬鹿が、一人前の口ほざくな!」

 それまで悔恨の情が大勢を占めていた悟浄の中で、怒りの感情が爆発した。

「この、くそ坊主!」
「エロ河童なら分かれ! この、激馬鹿!」
「二度と馬鹿って言うなよ、生臭坊主! 今度言ったら・・・!」
「馬鹿!」
「ンだと、コラ!」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い!」
「だから、言うなってんだろ!」
「だいたい、ハナっから気にくわねえんだ、貴様は!」
「そりゃ、こっちのセリフだ、てめえ坊主の癖に・・・!」
「やめろよ!」

 途中からつかみ合いながら、どんどん内容を無くしてゆく罵声の浴びせあいは、悟空の声によって遮られた。
 食事を摂ろうともせず、ずっと思いつめたような目で八戒を見つづけていた悟空は、涙の滲んだ眼を年かさの二人に向ける。

「八戒・・・・・、なんか、死んでも良いみたいな顔してた。」
「・・・・・・・。」

 息を呑む二人は、つかみ合った格好のまま、悟空の、次の言葉を待った。

「俺に、生きるって言ったんだ、八戒。 自分を誇れるだけの強さで、死なないって。 なのに・・・。」

 金目をぎゅっと閉じ、頭を垂れて、悟空が続ける。

「倒れて、悟浄の方見て、そん時、死んでも良いって顔、してた。 ・・・・・なんでだよ、八戒!」

 悟空が思いつめた目をしていたのは、八戒の死を恐れての事ではなく、この一事が気に掛かっていた故であった。 悟空にとって何より怖かったのは、八戒が以前のように死に急ぐ心境になってしまう事だったのだ。
 そして八戒の視線の意味を正確に把握している三蔵の怒りも、それに起因する物である。

 かつて八戒と悟浄が付き合っていた事を知っているのは、いまや三蔵ただ一人である。 それを無かった事にしようと動いた八戒の心情も、その性格をひも解けば、容易に推察できた。 だが、彼は考えていたのだ。
 例え八戒がどう動こうと、悟浄がその想いを忘れ去る事などありえないだろう、と。
 当時、二人のラブラブぶりに辟易した事のある三蔵には、この二人が何故、お互いに惹かれたのか、たぶん本人達より正確に言葉にする事が出来た。

 ―――・・・無いものねだり、だろうが。

 お互いがお互いの欠損部分をキレイに輔弼しあっている。 割れ鍋にとじ蓋とは良く言ったものだ。 忌々しいが、こうなるしか無かった二人なのだろう、と。
 実際、付き合い始めてから、二人は変わった。
 八戒は生きる意欲を見出して、物事を前向きに考えるようになり、あろうことか図々しさと自己中心主義にまで磨きをかけ、とにもかくにも、まともに笑うようになった。
 悟浄は自分の生に理由を見つけて、それまで否定するのみであった自身を認めはじめ、それに伴って本来持っていた情の深さが表出し、感情を素直に見せるようになった。

 職務でもあった為、二人の動向については知悉している三蔵である。 いくら単純で暗示にかかりやすい馬鹿でも、悟浄がこの男無しでまともになるとは思えず、いかに自虐趣味が過ぎるといっても、八戒がこの男無しで人並みに生きられるとは思えなかった。 故に、八戒が気の迷いで何を画策しようが、結果は同じだろうとたかをくくっていたのだ。
 だが旅に出てからこっち、悟浄はどんどん、何を考えているのか分かりにくい、ただのエロ河童に戻っていくし、八戒は更に自虐に磨きをかけたようで、まともに笑わなくなり、夜中に部屋で、歯を食いしばって泣いてたりする。 三蔵から見れば、馬鹿馬鹿しいの一言だったのである。
 ましてこうなって、八戒が死に誘惑を感じていると知った時、三蔵の悟浄に対する怒りが形をなした。

 ―――エロ河童らしく、さっさと押し倒しゃ良いんだよ、この馬鹿!

 さりとてそれを直截に口にするのも憚られ、一人怒りの視線を悟浄に向けていたのである。
 何より腹立たしいのは、悟浄が『読めない』事だ。
 八戒と付き合っていた当時、あれほどに分かりやすい単純馬鹿はいないとまで思っていた悟浄が、読めない。 ヘラヘラと笑いながら、用心深いと言いたくなるほどに、八戒に対しての悟浄の心情は覆い隠されている。 良き友人の域を越えていないようにしか見えない。

 ―――そんなワケがねえ。

 そう思えば、読めない事、それ自体がすでに腹立たしい。 こんな馬鹿に、俺が遅れをとる訳がねえ、と思うと、イライラする。 結果、こう考える事にしたのだ。

 ―――この馬鹿は、あまりにも馬鹿過ぎて気付かないのだ。

 そう思ったゆえの、三蔵の怒りである。 悟浄が馬鹿である故に、八戒は自暴自棄になるところまで追い詰められた。 許せない。 許せる訳が無い。
 場合に拠るが、時として馬鹿は罪である、と考える三蔵の怒りは、しかし悟浄には伝わらなかった。

 それでも、腕でぐいと目をぬぐった悟空の、涙の膜が張ったような金色の瞳に見つめられ、きまり悪げにお互いをつかむ手を離した二人は、怪我人の手前もあり、一事休戦を余儀なくされた。
 息を吐いてベッドに腰を下ろす悟浄を一瞥した三蔵は、眉間の皺を消す事無く、無言のまま寝具にもぐりこむ。 眠ろうとせずに一定の距離を置いて八戒の眠るベッドに目を向ける悟浄は、その目に何の感情も浮かばせない。
 また重い沈黙が部屋を支配する。
 ベッドサイドに佇んで、思いつめたような祈るような目をした悟空が、怪我人顔を見つめ続けていた。




 それまでに気孔を放ち過ぎて体力に限界が来ていた事と、背に受けた傷による出血があまりに多かった為、意識を失ったものの、一週間も安静にしていれば旅も可能になる、と医師に保証された八戒は、その言の通り、二日目に意識を取り戻した。
 いつもの笑顔を貼りつけた顔で、

「いやあ、ご心配かけちゃったみたいで。 でも僕、結構しぶといですから。」

 という八戒に、悟空が疑いの視線を向け、三蔵が片眉を上げて横目で一瞥する中、悟浄はニイっと笑って言った。

「だよなー、お前って、ホント見た目を裏切るからなあ。」
「なんですよね。」

 更に二日経った四日目には歩けるようになり、五日目には入浴も済ませた。 もう大丈夫、と医師の許可を得て、普通に固形食を食したその夜から、女性を求めての悟浄の夜が戻った。

「いちおー、心配だったから今までガマンしてたけどよ、野郎四人でひと部屋、一週間はきついわ。」

 もっともなセリフを吐く悟浄を笑顔で見送る八戒に、物言いたげな視線を向けた最高僧は、ため息をついてベッドにもぐりこむ。 安心して久方ぶりに腹いっぱいの食事をとった悟空も、すでに高いびきを響かせていた。
 身を起して読書をしていた八戒は、二人が寝入ったのを認めて、笑顔のない顔で、一人部屋を出た。
 怪我に良くないと分かってはいるが、酒を飲もうと思ったのだ。
 だが、宿のフロントに向かうと、

「あれ、八戒。 どした?」

 同じくフロントで宿の従業員と思しい男と話していた悟浄と、かち合ってしまった。

「いえ、お酒を呑みたいんですが・・・食堂で呑んでも良いかなあ、と聞こうと思って。」
「酒ぇ? 大丈夫なのか?」
「少しくらいなら。」
「まあ、お前オニみてえに強いからな。 アリか。」
「はい。」
「んじゃ、俺行くわ。 うまい事いって、おねーちゃんゲットしちゃったら、帰って来ないかもよ〜?」
「了解です。 ・・・行ってらっしゃい。」

 悟浄の背を見送りながら、一瞬考えた。

 ―――うまい事、か。 うまくいったら、女性とひと晩、一緒なんですよね。

 八戒の胸の奥に、ちりっと嫉妬の種火がうずく。

「・・・・・酒呑みたいって? 部屋じゃなくて?」

 フロントでさっき悟浄と話していた男が、軽い調子でかけて来た声に振り向いて、八戒は笑顔を見せる。
 小さな宿なので、ここはこの男一人で切り盛りしているようだった。 八戒は知らぬ事だったが、四人の宿泊を受け入れたのも、この男である。 痩せ型だが、剥き出しの腕は筋肉質で、背が高く、明るい茶色の髪は肩にかかるほどの長さだ。 

「相部屋の者が眠ってるもんですから。」
「あんた怪我してたんだろ? さっきの人も言ってたけど、大丈夫なの?」

 エプロンを着けた男は、少しハスキーな声で言った。

「はい、おかげさまでだいぶ良いので、ちょっと、と思いまして。」
「へえー。 いや、食堂を使うのはかまわないけどさ。 でも、一人で呑むのもナンだろ? 俺、つきあってやろうか?」
「良いんですか? ええ、ご迷惑でなければ。」
「ああ、もう少しで仕事が終わるから、そしたら行くよ。」

 そう答え、いったん奥に引っ込んで、酒と氷とグラスを載せた盆を持ってくると、

「これ、持ってって。 先にやっちゃってて。」

 盆を渡しながら、長めの髪をかきあげて男はそう言った。
 僕より背が高いな、と八戒は思った。



 ―――やはり悟浄は、酒場で女性と過ごした後に、連れだってどこかへ行くのだろう。

 そんな想いをかかえながら、八戒は一人、食堂で酒を呷り続けていた。
 死によって解放される、と一瞬願ったようには事態は動かず、相変わらずのやるせない悔悟の念が彼を苛んでいる。 身の内を焼く謂われない嫉妬の炎は、体内の熱を上げるのみでなく、下腹部にも昂ぶりを起させた。 それを何とかしたくても、異常なほどの酒豪である彼にとって、酒というものはさほど優しくない。 芳香を放つ酒の味わいは舌に苦く、八戒は全く酔う事が出来なかった。
 一人で呑んでいると、こんな事ばかり考えてしまう。 だから、宿の男がかけてくれた声は、ありがたかった。
 呑み相手はまだか、と考え始めた時、ドアの開く音と共にさっきの男の声が聞こえた。

「強いんだなー、あんた。」

 八戒が振り向くと、男は先ほど渡した酒瓶の残量に目をやって、ニヤリと笑った。 手にはグラスと、つまみと思しい皿を持っている。

「そんな顔して、随分ピッチが早いよ? ロックでカパカパ呑まないと、こうは減らないんじゃあない?」
「お疲れ様です。 いやあ、おつまみまで。 気を使わせたんなら申し訳無いですねえ。」
「そんなんじゃあ無いから。 俺も仕事終わったら暇だし、呑みに行こうかと思ってたし。 だから、ソレも俺の奢り。」
「えっ、そうだったんですか? いや、お金は払いますよ。」
「イイって。」
「そうはいきません、僕、結構呑んじゃったし。」
「良いんだよ。 俺だって呑み相手、探してたんだから。」

 意味ありげな視線を向ける、男の声が少しハスキーだった。

「・・・・厨房のお仕事も?」

 持ってきたつまみは、調理した物だった。 彼が作ったのだろうか。

「まあな。 なんでもやってんだよ。 通いのばあちゃんが洗濯とか飯とかやってくれるけど、朝は俺が作るし。」
「・・・大変ですねえ。 ここは貴方が経営を?」
「そんな、大したモンじゃ無いけどな。 こんなちっこくて古くても、親がやってたもんだから、潰す訳にいかねえしな。」

 言いながら、男は八戒の正面に座り、自分の酒をグラスに注ぐ。

「親御さんは?」
「・・・・・・半年前に、妖怪にやられてな。 ・・・・宿泊客だった。」
「・・・スミマセン。 立ち入った事を。」
「いや・・・・・。」

 グラスを注視していた男の視線が上がり、八戒に向けられた。

「それよりあんた達こそ、こんなご時世に旅だなんて、珍しいよな。 どういう知り合いなの、あんた達って?」
「いやあ、腐れ縁と言うか。 今回も、どうしても外せない用事がありまして、仕方なく、というか。」
「フーン。」

 窺うように八戒を見て、男は声の調子をあげ、持参した皿を八戒に勧める。

「ま、大したモン無いけど、食ってよ。」
「ありがとうございます、頂きます。」
「俺もかなり遊んでた方だからさ、今は結構マジメにやってんだけど、仕事の後の一杯だけはやめられなくてさ。」
「良いんじゃないですか? 息抜きですよ、これくらいなら。」
「明日も朝、早いんだけどね。」

 男はタバコに火を点ける。 八戒は、その香りに一瞬、心を奪われていた。
 思わず男の目をまっすぐに見詰めた八戒の視線に、男のそれが絡む。
 煙草を持っていない方の男の手が、八戒の頬に伸びた。 指の背で頬を撫でる手に、八戒の指がゆっくりと重なる。 意識しての行動ではなかった。

「・・・なら、たくさんは呑めませんね。」

 身体の動きが無意識なら、相手の目を見つめたまま唇から出た声の調子も、無意識のまま、濡れた響きを帯びている。

「まあな。」

 ・・・・きっかけは、そんな簡単な事だった。




「つくづく、見かけによらないな。」

 ベッドの上で、毛布にくるまったまま煙草に火をつけて、男はコトが終わってすぐに衣類に手を伸ばした八戒の背中に声をかけた。 癒えきっていない傷が、そこにはある。

「どういう意味です?」

 囁くような小さな声で、八戒が言う。 男が続けた。

「すました顔して、誘いには簡単に乗るし、ベッドじゃあんなに乱れるし。 ・・・・・色っぽかったぜ?」
「それって、褒めてるつもりですか?」
「・・・・怪我もまだ治りきってないのに、そんなに男が欲しかった?」
「別に・・・・」
「それにさ、終わった途端に服を着始めるなんてのは、随分と冷たいというか。」
「・・・何が言いたいんです。」

 少しハスキーな声を出す男は、肩まで伸びた髪を後ろに流しながら言葉を継ぐ。

「例えばよ、これで金を受け取ってたらあんた、まるっきり商売女だぜ? 勢いとは言え、商売抜きなんだから、少しは余韻とか無いもんかね。 朝までここで寝てたって良いんだぜ?」
「恋愛してる訳じゃない。 ・・・お互い、名前も知らないのに?」

 構わず身支度を整える八戒に、男は続ける。

「・・・あんたさぁ、昨日から宿ん中、歩いてたろ? 気にはなってたんだ。 キレイな顔して、妙に思いつめたような顔してさ・・・。 手ぇ出したくなるような、危うい感じが満々で。 まあ、でも男好きには見えなかったから、無理かなーとも思ってたんだけど。」

 意味ありげな視線を向けながら、声を低くして、男は言った。

「一緒の部屋の、あの赤毛の男。 出てく時・・・・・あんた、見てたろ?」
「・・・・・・!」

 反射的に見返した八戒の目を、ベッドの上の男は面白そうに見返してきた。

「悩ましいっての? イイ目つきだったぜ。 ああいうのが好みなのか?」

 呆然としたような碧の瞳に、痛みが見えた。

「ま、確かにイイ男ではあるけどよぉ、あっちは根っから女好きって感じだもんな。 だって俺に、イイ女の集まりそうな酒場はどこかって聞いて来たんだぜえ? あんたがいくら美人でも、ありゃ無理だよ。」

 声を出すのがやっとだった。

「余計なお世話です。」
「おい、怒ったのか?」
「・・・いえ。」

 部屋を出ようとする八戒の背に、少しハスキーな、でも悟浄とは全く違う、男の声が掛かった。

「なあ、いつまでここに居るんだ? また遊ぼうぜ。」
「止めときます。 ・・・おやすみなさい。」

 軽くなった身体と引き換えに、重くしこった心を抱えて、八戒は部屋へと戻った。
 多分正気じゃ無かったんだろう、と自分に言い訳しながら、同時に激しく自分を責める。

 ―――声がハスキーだって? 背が高いだって?
    全然違うじゃないか。 声だって、手だって、似ても似つかないじゃないか。
    一瞬でも似てると感じたのは、何だったんだ。
    欲に目が眩んだとでも?
    ・・・・・何の、欲に?

 三蔵と悟空の寝息を確認してベッドにもぐりこみ、八戒は眠ろうと努めた。 怪我をする前から安眠とは無縁の夜を過ごしていた八戒は、身体の芯に蠢いていた、訳の分からない感情が、少しだけ声を潜めているのに気付く。 それだけで八戒は安心した。 とりあえず、これで今夜は眠れる。

 それだけで、充分だ。 ・・・・・今日のところは。






《 To Be Continued For 思慕のウラハラ 世迷いごと。 2 》





 またも書いてしまいました、活劇。 ・・・前よりは少しだけ、うまく書けたかな・・・と、思ったりして。
 ・・・・・・続きます。

 
 


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