『はかりごと。 3 』2005.03.10

 



 土壇場まで、どうするか決めかねていた。
 暗示をかけてみて、悟浄がそれにかからなければ、諦めるつもりだった。 なのに。
 あまりにも簡単に、八戒の術中にはまってしまった悟浄を見て、暗い目の色で八戒は自分に言い聞かせる。

 神に背を押されたのだ、と。
 所詮、神は、自分達を容認しないのだ。




 ――― はかりごと。3 ―――




「貴方は、猪八戒を知っていますか?」
「知ってる。」

 呟くように抑揚の無い声で、悟浄は答える。

「出会った時は、どのような状況でしたか? 最初から教えてください。」
「雨の日に、血だらけで落ちてたから、拾ってきて、腹に穴あいてたから、腸だの腹ん中押し込んで、ヤブ医者呼んで手当てさせて、廊下とか、血が落ちてて掃除すんの面倒くさかった。 あいつはずっと寝てて、」
「ありがとう、もう、良いですよ。 それから三ヶ月後の事を教えてください。」
「・・・・・・・・。」

 悟浄は時系列で記憶を整理していないのだ、と気付き、八戒は言いなおした。

「質問を変えます。 雨の日、二人でお酒を呑んでいて、喧嘩になった日を覚えていますか?」
「・・・・・・。」
「夜中に、猪八戒が家を出ていった日です。 雷雨の激しい日です。」
「・・・・覚えてる。」
「その日、何がありました?」
「・・・・あいつ、出てくっつって、飛び出してったから、探して、見つからなくて、ビショビショんなって、・・・・探して、そしたらおかしくなってんのを見つけて、連れて帰って、ハダカにして、暖めようと思って、でも、でかい声で喚いて、ずっと震えてて、壊れちまうかと思って、可哀相で、だから抱きしめてキスした。
 ・・・女にするみたいに触って、身体中触って、キスして、したら、あいつイっちまって、挿れたくなって、すげえ色っぽくて、イイ声で、ナカもすげえ気持ちよくて、あいつも二回イって、寝ちまった。 どーしよーかと思ったけど、すんげえキレイで、ドキドキするし、告ったらあいつも好きって言って、すんげえ、嬉しくて・・・」
「ありがとう、もういいですよ。」

 付けまつげをはがしながら、八戒は続けた。

「・・・貴方は彼に、女性にするような事はしなかった。 ドキドキもしなかった。 告白もしなかった。 彼は好きと言わなかった。 貴方は嬉しくならなかった。」
「・・・・・・・・。」
「猪八戒は、雨の中で貴方が見つけた。 おかしくなっていたので、連れて帰って、びしょ濡れになっていたので、裸にして暖めた。 やがて、身体は温まり、猪八戒は眠りました。 貴方は、ホッとした。 心配だから目覚めるまで傍に居てやった。 翌日、彼は元気になっていた。 貴方は嬉しいと思った。 そうですね?」
「・・・・・うん。」

 素直にうなずく悟浄に、もう一度、一つ一つを質問する。
 彼は無事、暗示にかかったようだった。

「・・・そして、彼の身体は温まりました。 貴方はどうしました?」
「寝てたから、心配で、傍に居た。 目ぇ覚めるまで。」
「目覚めて、彼はどうでした?」
「元気。 憎ったらしいこと、言う。」
「憎たらしい事? 何を言いました?」
「ゆうべの事、覚えてないつって、でもキスしたとか色々覚えてて、俺に言った。 悪魔かと思った。」

 口紅を拭いながらそれを思い出し、口元に一瞬笑みを浮かべてそれを消すと、八戒は続ける。

「猪八戒は、前の日の事を、何も覚えていませんでした。 貴方に何も言いませんでした。」
「・・・・・・。」
「何も言わなかった。」
「・・・・言わなかった。」

 顔全体から化粧を拭き取りながら、次の段階へと、質問を変える。

「貴方は、男性とセックスをした事がありますか?」
「ある。」
「それは、誰と、ですか?」
「八戒、だけ。」
「いいえ。 貴方は猪八戒とセックスをした事がありません。」
「・・・・・・・ちが・・・!」

 それまで素直に暗示を受け入れていた悟浄が、顔を歪めて拒否反応を示した。

「無いんです。」
「ち・・・がう、違う。」
「貴方は、男性とセックスをした事がありません。」
「八戒」

 それまで、寝ぼけたような呟きしか発していなかった悟浄が、ハッキリと恋人の名を呼ぶ。

「猪八戒は、貴方の友人です。」
「がう、・・・ちがう、ちが」
「友人ですから、恋人のするような事はしません。」
「・・・・八戒は、俺のだ!」

 眉根を寄せ、叫ぶような悟浄を、八戒も泣きそうな顔で見つめる。 知らず、声にも苦渋が滲んだ。

「そうです。 猪八戒は、貴方の、です。 貴方の、友人です。」
「八戒、八戒は」

 言葉が悪かったか、と八戒は言い方を変える。

「ダチ、です。 マブダチです。 かけがえの無い友です。 他の誰とも較べられない、大切な友人です。」
「八戒は、俺の―――」
「マブダチ。」

 はあはあ、と、悟浄の荒い息遣いが、リビングに響いた。 閉じたままの眼から、涙が一筋、流れ落ちる。

「俺のだ。 俺の俺の俺の八戒おれのずっと一緒に―――」
「ずっと一緒です! 死ぬまでずっと、一緒に居ます。」

 八戒の目にも、知らず涙が滲む。

「俺のだ、八戒。 おれの・・・」

 うわ言のように、悟浄はつぶやき続けた。
 頬をつたう雫も、止まらず流れる。

 そんなにも、想われているのだ、自分は、と八戒は改めて思い知る。
 そうと知りながら、今、自分が行おうとしている事が、どんなに酷い事なのか、どんな罪を犯そうとしているのか、心臓を突く痛みと共に、認識した。
 それでも続けるのか。
 そう、自問する。
 自分だって、悟浄を愛しているのに。
 いや、愛しているからこそ、こうするのだ。
 これが、一番良いのだ。
 そう、自分に言い聞かせ、気持ちを切り替える。

 口はつぐんだが、悟浄はまだ肩で息をしていた。 涙も流れている。
 ああそうだ、この人は、声も出さずにこんな風に泣くのだ、と思い出す。 八戒の視線に、切ない物が混じった。

 どちらにしても、この記憶を消してしまうのは無理なようだ、と八戒は考える。
 被験者にとって、あまりにも強く、深い想いは、無理に消そうとするより、方向を少しだけ変えてやる方が良い、と本に書いてあったのを思い出す。 確か、そうしなければ、被験者の精神を、錯乱させてしまう事も考えられる、と書いてあった。
 腕を組み、ソファの背に身体を預けながら考えにふける八戒は、既に着替えを済ませていた。 頬の辺りに、拭いきれなかった化粧が残っている以外、彼をあの女性と同一視する材料は、もう無い。

 悟浄は、地べたに座ったまま、ソファの座面に身体を凭せ掛けている。
 八戒はそれに苦しげな目線を落としながら、そのまましばし考え、ひとつ息を吐くと、口を開いた。

「質問を変えます。 貴方には、恋人がいますか?」

 荒い息遣いを残したまま、悟浄は呟くように答える。

「いる。」
「恋人の事が、好きですか?」
「すげえ、好き。」

 八戒は、心臓にズキン、と痛みを感じた。 悟浄の表情が、穏やかなものに戻っている。

「貴方は今日、恋人とデートをしましたか?」
「した。」
「貴方は今日、恋人とデートをした。 酒場で待ち合わせをしましたね。 現れた時、貴方の恋人は、怒っていませんでしたか?」
「怒ってた。」
「・・・・恋人の目の色は?」
「碧。」
「今日、貴方の恋人は、栗色の長い髪をした、女性でしたか?」
「・・・・・・うん。」
「貴方の恋人は、栗色の長い髪、碧の瞳。 とても長身です。 ・・・美人です。」
「美人・・・・・。」

 眉根を寄せて、悟浄を見ながら、それでも冷静な声で八戒は言った。

「貴方の恋人は、栗色の長い髪、碧の瞳、とても長身。 香蘭という、女性です。」
「・・・・・・・。」

 『香蘭』と言うのは、幼い時、孤児院で一緒だった少女の名である。

「貴方の恋人は、お付き合いしている事を秘密にするように貴方に言いましたか?」
「・・・言った。」
「香蘭はお付き合いしている事を、秘密にするように、言いました。」
「言った。」
「ですから、香蘭とお付き合いしている事を知っているのは、猪八戒だけです。 他の誰も、知らない。」
「誰も、知らない。」
「三蔵も、知りません。」
「・・・知らない。」

 八戒は目を閉じて、息を整えた。
 自分でかけている暗示であるにも拘わらず、それを受け入れようとする悟浄に対して、怒り、あるいは動揺といった感情が湧き上がってくるのを、抑える事が出来ない。
 我ながら度し難い、と考えて自嘲し、目を閉じたまま鼓動が収まるのを待った。

「貴方の恋人の、こ・う・ら・ん 香蘭、は、栗色の長い髪、碧の瞳、とても長身。 今日、デートをしました。」
「こうらん」
「そう、香蘭です。 ・・・女性です。 おおっぴらにデートしたのは、今日が始めてでした。 みんなの前で、抱き合ったりキスしたのも、今日が始めてでした。 貴方はとても嬉しかった。 そうですね?」
「・・・・うん、・・・・嬉しかった。」

 碧の瞳が、暗く、光を失っている。 それでも冷静な声が、あらかじめ立てていた手順を踏んでいく。

「貴方の恋人は、何度か貴方から離れようとしませんでしたか?」
「した。」
「香蘭は何度か貴方から離れようとした。 貴方はどうしました?」
「抱きしめてキスして行くなって」
「香蘭が貴方から離れようとする度、貴方は『彼女』を抱きしめて留めた。 そうですね?」

 彼女、という言葉に力を込めて、八戒は言う。

「・・・・うん。」
「香蘭は我侭な恋人ですね。 秘密にしろと言い、貴方から離れようとします。 そんなに我侭なのに、貴方は好きなんですか?」
「・・・・すげえ、好き。」

 また、心臓の辺りに強い痛みを感じて、八戒は着衣の上から胸の辺りを鷲づかみにした。
 再び目を閉じて、はあ、と息を吐き、呼吸を整える。

「香蘭とは、いつも家で会っていました。 彼女が来ている時、猪八戒は出かけていて、いつも居ません。」
「・・・・・・。」
「香蘭とは―――恋人とは、いつも家で、二人きりで会っていた。」
「家で・・・・」
「そう、家で、二人きりでした。」
「二人きり。」
「貴方はクリスマスに彼女にプレゼントをしました。 とても迷って、悩んだけれど、良い物を見つけて、プレゼントしました。 それは、靴でした。」
「・・・・・・・。」
「彼女もそれを、前から欲しかったと言って、とても喜びました。 そうですね?」
「喜んだ。」
「なんと言って喜びましたか?」
「大当たり・・・・。 ありがとう。 つった。」
「そうです。 贈った物は、なんですか?」
「・・・・・・・。」
「贈った物は、靴でした。 今日、彼女はデートにその靴を履いてきました。」
「くつ」
「そう、黒い、靴です。」
「・・・・く・・・つ・・・。」

 八戒は、蝉華から借りた靴を、悟浄の目の前に寄せ、言った。

「ゆっくりと目を開けて下さい。 そう、ようく見てくださいね。 貴方が今見ているのは、なんですか?」
「・・・くつ。」
「そうです。 貴方が香蘭に贈った靴です。 目を閉じて下さい。」

 言われるままに悟浄が目を閉じる。

「貴方がクリスマスに、彼女に贈った物は、なんですか?」
「靴。」
「そうです。 その靴を、今日彼女は履いてきました。 彼女は靴が小さいと言いました。 足が痛いと言いました。 そうですね?」
「足痛え、つった。」
「今日、彼女はどんな服装でしたか?」
「黒い、長いドレス。 黒い靴。 毛皮。」
「それを見て、貴方はどう思いましたか?」
「イイ女。 ・・・あれ、八戒?」

 悟浄の眉根が寄り、混乱を表す。 慌てて、八戒は言葉を継いだ。

「彼女は香蘭です。 貴方の恋人です。 家以外の場所で会うのは初めてで、貴方は彼女を『イイ女』だと改めて思いました。 周りのみんなが羨ましがっていて、貴方は鼻が高かった。 その時、猪八戒を思い出したりはしなかった。」
「・・・・・・。」
「今日、酒場に入ってきた彼女・・・香蘭を見て、貴方はどう思いましたか?」
「キレイ。 香蘭・・・・。 ・・・・・・・・。」
「今日、貴方は香蘭とデートした。 香蘭が美人・・・イイ女なので、貴方も嬉しかった。 大っぴらにデートしたのも始めてで、人前でキスしたり抱きしめたりも始めてでした。 貴方はとても嬉しかった。 そうですか?」
「・・・・・うん。」

 八戒は小さく息を吐く。 最近の記憶は特に、おざなりに出来ない。 これで修復できたのだろうか?
 後は、仕上げである。

「今日、貴方は香蘭とデートして、とても嬉しかった。 けれど、今日、香蘭とは別れてしまいました。」
「・・・・・・!」

 悟浄の身体が、ビクン、と動く。

「香蘭は遠くへ行く、と言いました。 貴方と香蘭は、今日、別れました。 貴方は香蘭の、本当の名前も、住んでいる所も知らない。 香蘭を探す事は、出来ません。」
「・・・・・・・。」
「・・・・・・沙悟浄、今日は色々あって、疲れましたね?」
「・・・・・疲れた。」
「今から、三つ数えます。
 そうすると、貴方は目を開けて、自分のベッドで眠ります。 目を開けた時、ここは貴方一人です。 明日、目覚めるまで、ぐっすり眠っています。 目覚めた時、今まで目を瞑っていた間の事は、覚えていません。」
「・・・・・・・。」
「良いですか? いち。 に。 さん。」

 悟浄が、目を開いた。
 辺りを見まわす。
 至近に居るにも拘わらず、八戒の上を滑った視線は、認識の色を浮かべない。
 やがて立ちあがると、夢遊病者のような覚束ない足取りで、悟浄は自室へと去った。
 能面のような表情でそれを見送った八戒は、顔を洗い、脱ぎ捨てた衣類や鬘をテキパキと袋に詰めると、家を出る。

 もう、空は白んでいた。



 蝉華の家まで行って衣装などを返し、その足で、八戒は三蔵を訪ねた。

「・・・貴様、何しに来やがった。」

 相変わらずの出迎えに、なんとか笑顔を作って、八戒は答える。

「ちょっと、ご報告と言うか、お伝えしたい事がありまして。」
「ふん。」

 片眉を器用に上げ、横目で八戒を一瞥すると、面倒臭そうに続ける。

「猿を呼べ。」
「・・・あ、はい。」

 八戒はいったん三蔵の執務室を出て、悟空を探す。 予想通り厨房に居たので、三蔵が呼んでいると告げると、

「え、なんだろ。」

 と、ひとこと言うやいなや、最高速で走り去ってしまう。 八戒に追いかける元気もなく、徒歩で執務室に辿り付くと、タバコをふかしながら悟空になにやら言い含めている三蔵の姿があった。

「あ、八戒! メシ食いに行こうぜ!」
「はい? いや、僕は三蔵にお話があって・・・・」
「そんなツラ見ながら、何も聞く気はねえな。」

 部屋に入ってきた八戒に一瞥を与え、机に座りなおした三蔵は、書類を捌きながら続ける。

「え?」
「自覚無ぇのか。 酷えツラしてるぞ。」
「あ・・・・。」
「コイツは、美味いもんの在り処だけは、良く知って居やがるからな。 少しはマシなツラになってから出なおして来い。」

 良く考えたら、二晩、寝ていなかった。 食事も昨日から、まともには摂っていない。
 赤面して俯いた八戒を、悟空が手を引いて執務室から連れ出した。
 悟空と会ったのは、二週間ぶりだろうか。 三蔵とは、もう三ヶ月ほど会っていなかった。
 それなのに、変わらぬ二人の温度に、八戒は深い安心を覚える。
 今、この瞬間まで、自分の手で最も大切な物を失ったのかもしれない、という恐怖が、胸を渦巻いて離れなかったのだ。

「八戒、朝メシ食って無いんだって?」

 確かに。 しかし、誰にも告げてはいなかった。

「どうしてですか?」
「三蔵が言ったからさ! メシは食わねーと、元気出ねーぞ!」
「あはは、本当にそうですね。 いつも僕が言ってる事ですよね、それ。」

 知らず、暖かい物が心を潤した。
 悟空に手を引かれたまま歩く、商店街の道端で、八戒は目を閉じてみる。
 良かれと考えて行動した事なのに、この後に及んで後悔ばかりが浮かんでくる。 もう、とり返しのつくことでは無いのに。
 そう考えて行くと、自分の考えで行動するのが、怖くて仕方が無くなって来ていた。 誰かに言われるままに、誘導されるままに動く、と言うのが、自分のような奴には似合いなのではないか。
 そんな事を考えながら、手を引かれるままに歩いて行くと、悟空が唐突に立ち止まった。
 驚いて目を開けると、金色の瞳が八戒を覗きあげている。

「目、開けろよ、八戒! じゃないと、どこに居るか、わかんねーだろ! わかんねーと、こん次一人で来れねーぞ!」
「あ、・・・・・はい。」

 答えた八戒にニイっと笑って、悟空は再び手を引く。
 引かれながら、八戒は苦笑を漏らした。 

(なるほど、甘やかしては貰えませんね。)

 恋人では無いのだから。 自分を甘やかす手を、自分で断ち切っておいて、何を考えているのだ、自分は。

 悟空に連れて行かれたのは、町のあちこちに散らばる屋台だった。
 あっちの屋台で羹(あつもの)を食し、こっちの屋台で魚を食す。 そうやって、フルコースを遥かに超える品目を、少しづつ食べて、(無論、悟空は『少しづつ』では無かった。)気付くとお腹が一杯になっていた。
 なにより、豪快に食べ散らす悟空のありさまは、八戒を少しばかり元気にしてくれたようだ。
 どの屋台でも、悟空は可愛がられていて、その連れである八戒にも、乱暴ながら暖かい対応をしてくれた。

「な、腹イッパイになったら、眠くなっただろ?」

 わくわく、と、書いてあるような、金色の瞳が、八戒に答えを求めている。
 特に眠気は感じていなかったが、否定する事も出来かねて、八戒はあいまいに答えた。

「え? ・・・まあ、そうです・・・・かね?」
「だろ! んじゃ、行こーぜ!」

 次に連れて行かれたのは、変哲も無い民家である。 広い公園の、木立の中に埋もれるように建っている。
 悟空がドアを叩くと、中から老年の女性が顔を出した。
 背は悟空よりも低いが、年の割りに姿勢が良い。 大きな目が、しわくちゃの顔の中で、異常に存在を主張している。 極端に言うと、目以外、鼻も口も印象に残らないような、いわゆる異相である。

「ばあちゃん、腹イッパイだよ!」
「おう、よう来た。 寝てきんさい。」

 言うや否や、部屋の中に駆け込み、悟空は勝手知ったる風情で、奥の部屋に入ってしまった。 呆然とする八戒に、老女が声をかける。

「そっちの人も、寝てくんかい?」
「いえ、僕は・・・・・。」
「まあまあ、入りんさい。 外はまだ冷えるで。」

 招き入れられ、入った室内は、ほんのり温かくて、昼間なのに、暗い。 ごちゃごちゃと色々な物が置かれているが、それでも整理してあるらしく、雑然とした感じは受けなかった。

「悟空は、いつもこちらに?」

 悟空の盛大ないびきが、もう早、奥の部屋から聞こえてくる。 苦笑を漏らした八戒に席を勧め、ちんまりとした椅子に、手足を縮めるようにして座る八戒を見やりながら、間髪を入れぬすばやさで前の卓に茶器が置かれた。

「あん子ぉが、いっつもそこの木の下で寝とってな。 寒うなったで、中で寝んさい、言うたら、それからしょっちゅう来よるで。」
「そうなんですか。 悟空がいつも、お世話になってます。」
「いんやあ、なんも、しとらんよ。 こっちが貰うとる。」

 茶を入れると、老女は八戒をじいっと見つめた。 その目には、妙な力があり、その力に引きずられる様に感じて、八戒は戸惑った。

「お前さん、無くしもんをしたんか。 自分で捨てたんか。」
「はい?」
「顔に書いとる。」
「あの・・・・・。」
「損な性分だぁ、お前さん。」

 大きな目を猫のように細めて、老女は笑った。 そうすると、目も皺の中に埋没するようだ。

「損するように、出来とる。 けんど、それで良さそうだぁな、お前さん、そう思っとるねぇ。」
「・・・・えーと、・・・なんてお呼びすれば?」
「猫婆。 みいんな、そう呼ぶで。」
「・・・・猫婆さん、どうしてそう思われました?」
「言うたよ。 顔に書いとる。」

 そう言って、また猫婆は笑った。

「顔ぉ見るんが商売だからのぉ、見りゃ、顔に書いとる。」
「・・・・・そうなんですか。」

 三蔵が悟空に言い含めていたのは、ここに連れてくる事かもしれない、と八戒は気付いた。
 どうやら、この老女は、顔相見、らしい。

「無くしもんは、戻るかも知らん。 戻らんかも知らん。」
「はい。」
「戻らんでも、損にはならんよ。」
「・・・・。」
「しまいは、損にならん。 お前さん、そういう顔だぁ。 心配せんでも、ええよ。」
「・・・・・・僕は、また笑えますかね?」
「んん、そぉれは、時間が要るのぉ。 お前さん、いっぺんつかんだのぉ、無くしたからのぉ。」
「はい。」

 笑顔を作って、八戒が答える。

「ほお、そぉいう顔を作るんかい。 阿呆ぉやのぉ。」
「あはは、やっぱり、そうですか。」
「わかっとってしとるから、阿呆や。 やめんさい。」
「はあ・・・。」
「まっこと笑う、いうんは、力がいる。 あん子ぉは、そん力が強い。 お前さんは、弱い。」

 いびきの聞こえる奥の部屋を見ながら、猫婆は言った。

「あん子ぉは、いつも面白い顔ぉ連れて来よる。 前来た、ぼんさんも、面白い顔ぉやった。」
「・・・・三蔵の事ですか?」
「あん、ぼんさんの顔ぉは、困っとる顔ぉや。 自分ば、怒っとる。 他は怒っとらんに、他の顔ぉできん。 それで、損する。 損で良い、思っとる。 あれも、阿呆ぉや。」
「・・・みんな、阿呆ぉ、ですか。」

 笑ってつぶやく八戒を見て、大きな目に強い光を乗せて、猫婆は言った。

「あん子ぉは、強い。 助けて貰いんさい。」
「・・・・・・そうします。 ・・・あの、御代は?」
「いらんよ。 あん子ぉの連れて来るんは面白ぇで、いらん。」

 礼を言って、八戒は猫婆の家を出た。
 寺へ戻り、再び三蔵の執務室に顔を出す。 三蔵は書類と格闘中だったが、ちらと八戒を一瞥すると、興味なさげに言った。

「ふん、少しはマシなツラになったじゃねえか。」
「猫婆さんの所に、連れて行かれましたよ。」

 書類から顔を上げ、目つきを常より更に悪くして、挑戦するように、三蔵がつぶやく。

「・・・・何の事だ。」
「いえ。 それより、ご報告が。」
「聞きたくねえな。 どうせ、碌なもんじゃねえんだろうが。」

 猫婆の助言を無視して、八戒は笑顔で言った。

「悟浄と、別れてきました。」
「・・・・・・・。」
「三蔵だけには、言っておかなきゃと思ったので。」
「知るか。」
「ちなみに、悟浄は僕と付き合ってた事を、覚えてません。」

 書類から目を離し、三蔵が笑顔を崩さない八戒をにらみつけた。

「・・・・・・どう言う事だ。」
「催眠術を使いまして。 忘れてもらいました。」
「てめえ、そんなこと出来るのか。」
「見よう見真似ですけど、たぶん成功したと思います。」
「・・・・・碌なもんじゃねえな。」
「はい。」

 再び書類に目を戻しながら、事も無げに三蔵は、続ける。

「どうするんだ。 一人で暮すのか。 それとも、寺に戻るか。」
「いえ、今まで通り、悟浄の家に居ます。」
「それで、問題ないのか。」
「ありません。」
「ふん。」

 八戒が表情を消して、言った。

「スミマセンが、三蔵も、今までの事は無かった事として接して下さい。」
「俺は忙しい。」
「お願いします。」
「手伝わねえなら、とっとと帰れ。」
「ありがとうございます、三蔵。 悟空にもお礼を言っておいて下さい。」
「・・・・らしくねえな。」
「・・・・ですね。」

 踵を返して、部屋を退出しようとする背中に、声がかかる。

「待て。」
「・・・・はい。」

 振り向いて机に座る三蔵に視線を向けると、紫の瞳が、キツイ色を載せて見返していた。

「面倒くさい物を三仏神に押し付けられた。 小動物は、間に合ってるんでな。 お前、持ってけ。」

 そう言うと、三蔵は持僧を呼び出し、大きめの鳥かごのような物を持ってこさせた。
 中に、キイキイと鳴く、白い竜が入っている。

「暇つぶしくらいにはなるだろう。 下手に扱って、殺すなよ。」
「あはは、大丈夫だと思います。 多分。」



 家に戻ると、夕方になっていた。
 悟浄はもう起きていたが、ソファに自堕落に座ったまま、出かける様子は無い。 鳥かごを上げて見せ、ことさら明るく、八戒は声をかけた。

「ただいま。 三蔵に、もらい物をしてしまいました。 後が怖そうですけどねぇ」

 悟浄は、ちらりと八戒に目を向けたが、言葉はない。

「どうしたんです? 今日は、賭場には行かないんですか?」
「・・・・いかねぇ。」
「じゃ、夕飯作りますね。」

 キッチンに向かう背中に、悟浄の声がかかった。

「八戒。」
「なんです?」
「・・・・香蘭って、知ってる?」

 振り向かず、平静を作って、八戒は答える。

「貴方の彼女でしょう? 昨日デートしたんじゃないんですか?」
「うん。」
「どうかしたんですか?」

 言いながら八戒は、暗示が完全では無かったのか、と危惧を覚えていた。

「・・・・イヤ、良いんだ。 わり、八戒やっぱメシいらねぇわ。」

 そのまま悟浄は、外出した。
 様子はおかしい。 まだ暗示が完全では無くて、混乱をきたしてしまっているのだろう。
 折を見て、少しづつ修正して行かなくてはならない、と考えて、八戒は卓の上を見た。
 編みあがったセーターが、一昨日からそこに置かれたままだ。

 悟浄の、セーターだ。
 彼の為に、編んだ物だ。
 自分には少し大きかったと言って、着てもらおうか。
 喜ぶかどうか、分からないけれど。
 着ては貰えないかもしれないけれど。

 そのくらいの罰は、受けなければ。

 それだけの事を、自分はしたのだから。





 《 END はかりごと。》






 はい、スミマセン。 とんでもない事になってしまいました。 なのに、これで完結です。
 感想、ご意見など、お待ちしてます。



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