『はかりごと。 2 』2005.02.13

 



 八戒から求められた、など初めての事だ。
 それ故に不安を抱えて過ごした一夜を、悟浄は反芻する。
 やはり、八戒がおかしい。
 頭を振ってそれを打ち消すと、安らかに眠る恋人の頬に唇を触れ、一人出かけるために身支度を整えた。
 自分の抱える不安が、杞憂に終わることを祈りながら。




 ――― はかりごと。 2 ―――





 八戒が目覚めた時、窓の外には、星が瞬いていた。 寝室は暗く、時間も分からない。
 ぼんやりとした頭で寝入る前の記憶を検索し、自分の口にした言葉や、行った行為を思い出して赤面する。
 妙に記憶力のよい自分を呪い、自己嫌悪に陥って、ひとり頭を抱えた。

 いつまでも、そうしている訳にも行かないと思いきわめ、八戒はのろのろと身体を動かし、部屋の灯りをつける。
 辺りを見ると、いつもと違い、床に衣類が散乱する事もなく、八戒の身体も清められてはいなかった。
 悟浄は家にいないのだろうか。
 浴室へ行こうとして、壁際の時計に目をやった八戒は、自らの目を疑った。 枕元にあったモノクルを装着し、再び確認したが、間違いはない。
 もう、十一時を過ぎている。
 昨夜・・・というか、今朝、悟浄が帰宅したのは、空の白み始めた頃だった。 多分、朝の五時を過ぎていただろう。 悟浄と会話を交わし、彼の言葉に心臓をわしづかみにされた様に感じて、自ら求めて行為に入った。 それは、鮮明に覚えている。
 自分の思考経路を呪い、賭けまでして自分を律しなければならない、揺らめく自分の心情を嫌悪する。

 ・・・・・・それにしても、意識を手放してしまったのは何時だったのか。 
 それから今まで、正体もなく眠りこけていたのか、自分は、と戦慄し、自分自身を抱きしめる様に自らの身体に回した腕に力がこもる。

(末期症状、きてますね。 自分で自分を制御できないなんて。)

 浴室は八戒の部屋の向い、悟浄の部屋の隣にある。
 自室を出た八戒は、浴室のドアを開いて湯が満たされているのを知り、再び驚いた。
 悟浄が、用意してくれたのだろうか。 無論、それ以外考えられないのだが、信じがたいことだ。
 それにしても、彼はどこに居るのだろう。 こんなふうに、何もかもお膳立てしておいて、自ら姿を見せようとしないのは何故だ。
 八戒が、自分の行為をどう扱っていいか迷うことを見越して、敢えてほおって置いてくれているのだろうか?
 いや、それは彼らしくない、と八戒は打ち消す。
 こんな時は、必要以上に、しかもわざとらしく確認して、八戒が赤面するのを楽しむようなところがある。
 ・・・・・・そういうところは、まるで子供なのだ、あの男は。
 すっきりしない思考を持て余しながら、身体を清めると、湯船に身体を沈める。 満たされた湯は、まさしく適温で、どこか強張っていた身体を解してくれる。
 もともと長湯の傾向のある八戒は、湯につかりながら、意識をこのところの懸案へと向けた。
 李二理の件があってから、彼には密かに立てている計画があったのだ。

 八戒は気付いてしまったのだった。
 もし、悟浄に好きな女性が出来たなら、自分が身を引けばそれで済むと思っていたことが、間違いであったという事に。
 悟浄という男の持つ優しさは、時に残酷でさえあるという事・・・一度本気で恋をした相手と、簡単に友人づきあいをするような、そんな割り切り方の出来ない男であるという事に。
 李二理に、真正面から好意をぶつけられても、悟浄は彼女に対して、特別な感情を一切持たなかった。 それは多分、自分がいたからだ。 感情が、そのように動いてしまう男が、本気で女性に恋をしたなら、どちらに転んでも、彼は苦しむだろうし、選ばなかった一人には、当然気を使うだろう。 そう、二度と顔を合わせまいとするのではないか。

 ならば、今、自分が『恋人』として傍にいること自体が、将来の不安に直結する。
 恋が終われば、関係も終わる。
 その後の生涯を、友人として過ごすことなど、ありえないではないか。
 で、あるならば、今のうちに自分たちの関係を無かったことにするしか無い、と考えたのだ。
 だが、八戒が何を言っても、どう動いても、悟浄は愛想を尽かしてくれない。 それどころか、そのとき彼から漏れる言葉は、八戒の強張った考えを溶かそうとする。 ・・・・本当に、八戒を理解し、愛しているのだ、と知れる。
 そうと知れば知るほど、悟浄の今現在の気持ちの強さを感じれば感じるほど、八戒の不安は募る。 それと同時に、密かに自分で固めた決心を、自ら無視して、彼の傍に居続けたい、という欲が強まる。

『このままではダメだ』『このままでいたい』

 二つの欲が、八戒の中でせめぎあう。 全く逆のベクトルで、ほぼ同等の力が働き、それぞれがそれぞれの理由で、八戒自身を責め立てる。
 苦しくて、辛くて・・・・。 そんな時、二理に聞いた話を思い出した。
 彼女の兄は、『このままでは妹を殺してしまう』と、言って、自ら入院したのだという。
 ――― 悟浄に、殺される。 それも、抑えがたい愛、故に。
 魅力的なシチュエーションだった。

 ――― そう、確かその話を聞いた時、自分は羨ましい、と感じたのではなかったか。
 ――― そう、初めて悟浄を見た時、『この人が殺してくれる』と、思ったのではなかったか。

 無論、実行は出来ない。 悟浄を恋人殺しにする事は出来ない。
 それでなくても、母親の死と兄の失踪を自分の責として、未だに自分自身を許していない悟浄ではないか。
 でも先日は、その誘惑に打ち勝てず、悟浄に首を締めろと頼んでしまった。
 ただそれだけで、彼を傷つけてしまった。
 傷ついたにも拘わらず、悟浄は一晩かけて、八戒を理解しようとしてくれた。 しかも、その理解は正しかったのだ。

 また、決心が揺らぐ。

 こうなる事は、分かっていた。
 悟浄が自分をかなり正確に把握している上に、ありえないほど譲歩してくれている、と言う事は、分かっている。 悟浄がそうだから、それに甘えてしまって、自分はまた刹那的な安寧に身を委ねてしまう、という事も。
 だから、自分は賭けをしたのだ。
 悟浄と離れようとする自分と、悟浄と共にありたい自分との間で、賭けをしていた。
 自分が勝てば、計画を実行する。
 負ければ諦める。
 そうでもしなければ、自分ではどちらとも決められなかった。
 ・・・・・そして、悟浄は言った。

『なる。 賭けなんざ、関係ねぇ。』

 実験台になる、と自ら言った。
 それは、八戒自身の賭けが、計画実行へと進んだ瞬間である。 悟浄は、自分の不安の実現を、彼自身の言葉で決定付けたのだ。

 ひとつ、息を吐いて思考を中断すると、八戒は湯からあがった。

 灯りのついたリビングに、悟浄は居た。 入ってきた八戒を、待ってました、という風情で見る。
 狭い家だ。
 ここからでも、湯を使う八戒の動きは知れていただろうに、敢えて顔を出さなかった男の赤い瞳が、悪戯を思いついて我慢しきれない、子供のような色を見せている。

(可愛い・・・・・・)

 と、思ってしまい、末期に入っている自分の状態を再度自覚して赤面した八戒に、悟浄がやっと声をかけた。

「おはよ。 てか、夜だけど。」

 いつも自分が悟浄に言うせりふだ、と感じ、まだハッキリとしきらぬ頭を無意識に振る。 僅かな非難を込めて、声を出した。

「どうして起こしてくれなかったんですか?」
「ん、だってさ。 負けたくなかったからさ。」
「何のことです?」
「やっぱ、気付いてねぇんだ。」

 言いさして、悟浄は壁の時計に目をやり、にやり、と笑った。

「よっしゃ! 俺の勝ちな!」
「はい?」
「今、十二時過ぎたぜ。 八戒、女装決定な。」

 聞き間違えたか、と一瞬考え、恋人の瞳が嬉しそうに自分を見ているのを見返して、呆然と問い返した。

「・・・・何を言ってるんです?」
「賭けだよ。 俺の勝ちだろ?」
「だって、悟浄、実験台になるって・・・・・・」
「なるさ。 賭けとは関係なく。 でも賭けを止めた、とは言ってねぇもん。」
「あ・・・・・・」
「だいたいさ、賭けたのは『一日相手の言うなりになる』だろ? 実験台云々は別のハナシだよな?」

 得意げに言葉を継ぐ悟浄を見つめながら、混乱する意識を正常に戻そうと努力する。

「だから、俺の勝ち。 甘えんだよ、大体が。 本職のギャンブラー相手に賭けなんざ、身の程知れってコト。」

(え? 僕は負けたのか?
 こんな賭けまでしたのに。
 悟浄を傷つけてまで、勝とうとしたのに。)

 動揺が目の色に表れていた。 顔が少し青ざめ、身体の横で握り締められたこぶしが、微かに震える。 その様子をつぶさに見て取りながら、知らぬフリを装って、悟浄はことさら楽しそうに言葉を続けた。 

「そんな口惜しがってんの、初めて見た。」
「・・・・・・自分の迂闊さが恨めしいだけです。」
「そーゆーの、『口惜しい』つーのよ、世間では。」

 調子よく言いながら、悟浄は八戒の様子を冷静に見ている。

「ザマミロって感じだけどねー。 お前さ、いつもヒトにはそーゆーコトしてるって分かってる? タマにはお前もそういう気分、味わったほうが良いんじゃねぇかって、俺は思ってたぜ、ずっと。」

 握り締めたこぶしを緩める事無く、混乱する思考を己の中で整理し始めた八戒は、やがて大きくため息をつき、食卓椅子に腰を落とすと、無意識に握り締めたこぶし以外の体の力を抜いて、言った。

「・・・・・・分かりました。 認めますよ、僕の負けです。」
「そうこなくちゃ。」
「で? どうします? 今この瞬間から一日をカウントするんですか?」
「ハナシ早いね、おにーさん。」

 軽口を叩きながら、悟浄は恋人の様子を窺う。 ただ賭けに負けただけで、こうまで動揺する八戒ではない。 やはり様子がおかしい、と再度思う。 だが、余裕を失っている八戒はそれに気付かなかった。

「こういう事は、早くすっきりしたいですから。」

 声だけは、通常のものに戻っている。 だが、眼の周りが赤らみ、碧の瞳も心なしか潤んでいた。

「ふーん。 どーすっかな。」

 窺うように八戒を盗み見て、悟浄はそ知らぬ声を作る。

「・・・・・・んーとさ、お前、それ早く仕上げたい?」
「セーターですか? ええ、そうですね。 もう少しですし。」
「んじゃ、それからでイイよ。 つーわけで、俺は寝る。 おやすみィ」

 ことさら上機嫌を装った声でそう言い捨て、ちらと八戒に目線を送ると、悟浄は自室へと去った。
 一人リビングに取り残された八戒は、呆然とこぶしを握り締めつづける。
 八戒は宙を見つめて思考をまとめていたが、やがて小さく息を吐き、新たに決め事を自身に課す。
 それでも憤懣は収まらず、結局、それから朝方まで、怒りに任せた勢いで、八戒はセーターを仕上げてしまった。

 翌朝、珍しくも普通の時間(つまり、朝)にリビングに顔を出した悟浄は、相変わらずの上機嫌を装い、軽口を叩いた。

「お、セーター出来たの?」
「はい。」
「んーじゃ、賭けの清算、してもらおうかなー。」

 そう言うと、八戒に外出の用意を命じる。
 実は考え事をしていて、眠れなかったのであるが、それはおくびにも出さない。
 同様に一睡もせずに朝を迎えた八戒は、不本意を隠そうともせず、それでも言われるままに身支度を整えるや否や、悟浄に連れられて隣町へと向かう羽目になった。
 連れて行かれたのは、昔馴染みの家、である。
 何を考えているのかを口に出そうとせず、ニヤニヤ笑いを見せつけるような悟浄に、不審の目を向ける八戒は、だが肉厚の手のひらを迎える形に広げたその家の住人が、野太い声を出すと同時に事情を悟り、硬直した。

「いらっしゃ〜い。 あら、そのコぉ? ほんと、キレイなコねぇ〜。」

 悟浄と同じ位の身長と体格を持つ、偉丈夫といって良い、オカマ。 あまりの迫力に硬直した身体を、意志の力で動かそうと努力した八戒は、なんとかその努力が報われるや否や、一歩、後ずさる。

「蝉華(センファー)、昨日頼んだ通り、キレイにしてやって。 んじゃ、宜しくぅ!」
「って、悟浄、行っちゃうんですかっ!」
「だって、俺居たって意味ねぇし。」

 当然のように言い放ち、ニヤリと笑って付け加える。

「あー八戒、俺、いつもの酒場で待ってっから。 用意できたら、一人で来んだぜ。 じゃな。」 
「悟浄!」

 後を追おうとする八戒は、蝉華と呼ばれた人物に腕をつかまれ、その見かけに違わぬ腕力に、脱出を断念する。
 そうとも知らず、彼女(?)は八戒に、ニコヤカに語りかけた。

「賭けに負けたんだって? アンタ連れて、呑みに行くって言ってたわよ、あのコ。 悪党だわねぇ」

 無言のまま、ごくりと喉を鳴らす八戒を見て、蝉華は、無闇にキレイに整えてある眉をしかめた。

「そんな、怖がンなくても、とって食いやしないわよ。 アタシは頼まれて、アンタをキレイにしてあげるって、約束しただけ、だから。」
「・・・・あの、華蝉さん、でしたっけ。」
「蝉華よ。」
「スミマセン。 その、昨日、悟浄が来たんですか?」
「そ。 夕方にね。 アタシ、あのロクデナシに借りがあんのよ、昔のことなんだけどさ。 だから断れなくって。
 ンでも、アンタみたいにキレイなコだったら、やりがいあるわねぇ。」
「はあ。」

 ニコニコと笑う、迫力のわりには人の良さそうな蝉華の顔を見て、八戒は息を整えると、正面から彼女(?)を見つめて言った。

「・・・・あの、お願いがあるんですが。」
「ナニ?」
「覚悟は決めたつもりなんですが、その、僕も生活があるので。」
「ウン。」
「もし可能なら、僕とは分からないようにしてもらえませんか?」
「フーン。 そのまんまでもキレイだけど、お望みなら簡単なことよ。 ちょっとケバく作ればイイんだから。」

 ケバく? と、蝉華の言葉に軽い震撼を覚えつつ、八戒は必死の体で頼む。

「スミマセン、その線でお願いします!」
「でも、もったいないわねぇ。 清楚な雰囲気で作っちゃおうかと思ったのに。」
「いえ、ホントに!」
「ふん、そんなに嫌なのぉ? ゼッタイ、キレイになれるのに。」
「本当にスミマセン! でもそこに価値を見出せないので、僕は!」

 つまらなそうに、鼻から盛大に息を吐くと、蝉華は八戒に流し目をくれながら言った。

「今度から、賭けをするなら相手を選ぶことね。」
「・・・・肝に銘じますとも。」

 メイクをし、鬘を選んで衣装を着ける。
 何を着せても映える、と喜んだ蝉華は、着せ替え人形宜しくあれこれと衣装を着せ、その度におずおずと却下を申し出る八戒に、鼻を鳴らして押し問答をする、という経緯を何回も繰り返したため、八戒の変身が完了するまでには、優に三時間を要した。
 要望通り、本人とは分かりにくい姿となった八戒は、強制的に鏡を見せられ、頭痛を感じながらも一応は礼をいう。
 だが蝉華には、

「アンタ、食うに困ったらアタシんトコいらっしゃい。 稼げるわよぉ、きっと。」

 と、手を打って言わしめた出来映えである。

「あの赤アタマ、このアンタ見たら、惚れちゃうかもよ? あ、でも安心して! あのコ、ストレートだから。 アタシがいくらコナかけてもダメだったんだから、失礼しちゃうわよねぇ!」

 ただし、蝉華の方が八戒より若干足が小さかった。 それでなくても、先が尖った、かかとの細い靴は、慣れない八戒の歩行を困難なものにしていたのだが、キツイ靴を履くという事が過去に無かった八戒は、それを口にしていなかった。
 八戒の足の事情を知らされなかった蝉華は、不様な歩き方をする八戒を見て眉毛を逆立て、歩行指導を受ける必要を強調する。

「ダメよ! せっかくキレイに出来たのに! 歩き方ひとつで、汚くなっちゃうのよ!」

 言われるままに歩行訓練を受けた八戒だったが、それによって、更に足を傷めてしまった。 とはいえ、それを態度に表す八戒ではない。
 故に全く気付かなかった蝉華は、同業者に見せびらかすために、八戒を送ると言い張り、電車で行くのも気後れする八戒が了承したため、八戒が酒場に着いたのは、もう夜と言って良い時間になっていた。
 いつの間にか同乗者が増え(無論、蝉華の同業者である)、やたらと華やかな雰囲気が漂う、しかも何種類かのキツイ香水の香りが渾然一体となった車内に、笑顔を送りつつ礼を言った八戒は、内心の汗を隠しつつ見送って、ひとつ息を吐いた。
 振りかえって酒場の入り口を見やると、目を瞑って深呼吸をし、目指すドアを開く。
 酒場に入ると、カウンターに目立つ赤い髪が見えた。
 悟浄は一人で呑んでいる様だ。 通りがかった顔見知りと思しい男と、軽そうな会話を笑いかわしている。
 一歩、足を踏み出して、そこに痛みを感じた八戒は、激烈な怒りを瞬間的に覚え、ヒールの音も高く、カウンターに歩み寄った。
 とは言っても、痛みがあるため足早に、とは行かず、ヒールの音のみ勇ましく、歩みはゆっくりと言う状態である。
 それが傍目には、余裕のある大人の女に映ることなど、八戒は想像だにしていない。
 結果、カウンターにに到達するまでの間に、八戒は注目を浴びる事となり、痛いほどの視線を感じる破目に陥った。
 居心地が、悪い。
 誰かに耳打ちされ、悟浄が振り向いた。 近寄る女性に好奇の目を向けていたが、やがてそれが八戒だと気付いたようで、眼を丸くしているのが見て取れる。
 だが、八戒には寸分の余裕も無い。 笑顔も見せず、カウンターに行きつくと、八戒は赤い頭を見下ろして、きわめて小声でひとこと、言った。

「覚えておいてくださいね。 この借りはいつか絶対返しますから。」
「ナニ言ってんの? お前、賭けに負けたんだから、正当な取引よ? 借りも貸しもねぇだろ。」

 紅い瞳が、嬉しそうに八戒を見上げている。 声から正体がバレルのを恐れている八戒は、あくまで小声である。

「座ります。 足が痛いんです。」
「どーぞ。 つか、化けたなぁ。 わかんなかった。」
「分からないようにしてもらったんです。 町を歩けなくは、なりたくないですから。」

 栗毛のロングヘアに、暗紅色の口紅。 眉は前髪で殆ど隠れているが、ご丁寧に栗色に染めてある。 明るい茶色の付けまつげが重ね張りされ、アイラインを強調した目元は、もとの八戒からは想像できない、妖艶な雰囲気を見る者に感じさせた。
 身体の線を強調し過ぎない黒のドレスは、足首までの長さがあり、さほど高くは無いが細いヒールの黒いパンプスが、八戒の足を痛めつけている。 少し開き気味の襟元をカバーする様に、太目のチョーカーリボンがのど仏を隠していた。
 丈の短い毛皮のジャケットが、さらに華やかさを際立たせる。

「でも想像以上にイイ女だよ。 胸はどーやって作ってんの?」
「聞かないで下さい。」
「ま、イイや。 後で分かることだし。 それより、呑も。 ナニがイイ?」
「呑んだって落ち着きませんよ。 で、こんな事までして、一体、何がしたかったんですか?」
「ナニって、お前の事、見せびらかすのよ。 こんな美人、ここいらじゃ見かけねぇだろ?」
「マジですか。」
「大マジ。 大威張りでお前とデートできるんだもん。」
「・・・・悟浄、こっちのリスクが高過ぎです。」
「お前の双子のねーチャンってコトにして、みんなに紹介しようかと思ってたんだけど、その必要ねぇな。 まるで別人。」
「そんな事考えてたんですか? 通用する訳無いじゃないですか!」

 あくまで小声で会話を進行する八戒が、呆れて言ったその時、不意に大量の気配に圧迫されるような感覚が背後にあることに気付き、振り向いて事態を把握すると、思わず一瞬、身を引いた。

「おい、悟浄。」
「どこのどなた様だよ、この方は!」
「すげ―美人じゃん!」

 さほど混んではいなかった筈の酒場に、こんなにいたのかと思うほど大勢の男たちが、少し距離を置いて立っている。
 自身の不機嫌もあり、笑顔を忘れた八戒の冷めた横目で一瞥され、問い詰める男どもが言葉を失った。
 八戒的には冷めた一瞥であった視線は、立ち尽くす男達からすれば、流し目にしか見えなかったのである。

「寄るな、コラ! 町で売れっ子のモデルさんだよ! てめーらの相手するような人じゃねぇ、散れ散れ!」
「じゃ、お前はナンなんだよ!」
「このヒトは、俺に会いに来てくれたの! お前等も見てたろ?」
「ナンでお前ばっかり・・・・・!」
「邪魔すんなって!」

 きわめて居心地の悪い八戒は、悟浄の耳元に口を寄せると、囁いた。

「早く出ましょう。 かなり辛いです。」

 ニヤリと笑って、

「オッケー」

 と答えるや否や、至近にあった八戒の唇に、濃厚なキスを施した。
 おお、とどよめく周りを尻目に満足そうな笑みを浮かべる悟浄に、赤面しながら流し目をくれる八戒の姿が、周りの男達には、納得を与えたようだ。
 と、言っても、八戒的には、横目で睨み付けただけなのだが、付けまつげとアイラインで飾られた目元は、なにをしても妖艶にしか見えない。

「つー訳だから、もう行くわ。 ホレ、どけ。 道を開けやがれ。」

 立ちあがった悟浄に続こうとして、足元のおぼつかない八戒は、思わずその腕にすがる。 そうと気付いて、悟浄も腰に手を回し、八戒の歩行を助けた。 が、傍目にはラブラブべったりとしか見えない図である。
 
「やるなあ、悟浄。」
「ありゃ、オンナの方がべったりだろ?」
「すげえ、一体どこで知り合ったんだ?」

 店を出て、馴染みの服屋に向かおうとする悟浄に、八戒が噛みつく。

「なんて事をすんですか!」
「イイだろ、誰もお前とは思ってねぇし。 前から人前でキスしたかったの! つか、足、そんなに痛えの?」
「蝉華さんのほうが、僕より足が小さいんですよ。 しかも、この形でしょう。 もう、痛くて痛くて。」

 どうしても、すがるような歩き方になってしまい、悟浄が支える形となる。
 ラブラブカップルにしか、見えない。
 悟浄はそれに気付いてほくそえんでいたが、八戒に自覚は無いため、足の痛みに比例して、すがる形は徐々に激しくなって行く。
 酔って足元の覚束なくなった女性を、悟浄が優しくエスコートしているように、傍からは見えた。

「でも、今日は付き合えよ。 踊りに行くのは無理としても、レストランも予約してあるし、賭場にも行かなきゃだろ。 俺によっかかってて良いからさ。 大体座ってりゃイんだから、大丈夫だよな?」

 それからあちこちで、八戒を見せびらかした悟浄は、傍目にも上機嫌だったが、それを不自然と感じるものは誰もいなかった。
 後日、町の噂で『悟浄が、売れっ子モデルに惚れられて、大変だ』と言う話になっていた事は、言うまでも無い。



「なんか、超機嫌悪くね?」

 家に帰りつき、鬘をむしりとった八戒をみて、悟浄が言った。

「当たり前です! 足は痛いし、常に視線を感じて、気が休まらないし、最悪ですよ。」

 続けて衣装を脱ごうとする八戒に、悟浄が待ったをかける。

「ああ、ダメ。 まだそのまんまな。」
「はい?」
「まだ、一日終わってねぇもん。」

 はあ、と息を吐き、肩を落としながらソファに身体を沈め、上目遣いに悟浄をみて、八戒が問う。

「・・・・靴は脱いで良いですか?」
「しょーがねぇ、それは許す。」
「・・・スリッパ。」
「へいへい。」

 八戒の足元に、室内履きを置いてやりながら、悟浄は含み笑いを隠さない。

「・・・・何、笑ってんです。」
「いや、嬉しいなーって思って。」
「何が。」
「だってさ、みんなの前で腕組んで、キスして、腰抱いて歩いたし、イチャイチャできたし。 なにげにすっげー嬉しい。」
「もう二度とご免ですよ、僕は。」

 ソファの座面に凭れ掛かるようにして床に座った悟浄は、鬘を取って露わになった黒髪に手を伸ばし、優しく梳いた。

「ナンです?」
「こうしてると、八戒っぽい。」

 髪を梳く手を止めずに、見上げてくる瞳があまりに優しげで、八戒は鼓動がひとつ、鳴ったのを自覚した。

「そんなに違いますか。 いつもの僕と。」
「ん〜、声出さなきゃ、どっかのキレイなおねーちゃんかも。」
「・・・それは今日で一番、嬉しいお知らせです。 安心しました。」
「・・・・・でも鬘とったら、やっぱ八戒ってカンジする。 俺、コッチの方がイイな。」

 言うと、八戒の頭部を引き寄せ、自分も身を伸ばして、優しく口付けた。

「疲れた?」
「・・・・悟浄こそ、今日は疲れたんじゃないですか? 随分はしゃいでましたよね。」
「そうかな。」
「そりゃ、もう。」

 二人は至近で見つめあっていた。 まだ化粧も落とさないままの状態で、八戒が笑顔を作る。 常なら爽やか系の笑顔なのだろうが、化粧のせいで、それはとても妖艶なものに見えた。

「疲れを取ってあげましょうか?」
「・・・ナニしてくれんの?」
「そのまま、リラックスして。」

 笑顔の八戒と、にやけ顔の悟浄の瞳が、間近でお互いを認めている。 悟浄の髪を優しく梳きながら、八戒は低い、囁くような声を出した。

「悟浄、眠くなってきたでしょう。」
「ん〜?」
「ホラ、瞼が重くなってきた。」
「・・・・ん。」
「もう、眼を開けていられない。」
「・・・・・・・。」

 ゆっくりと、悟浄が目を閉じる。

「こんどは頭が重くなってきました。」
「・・・・・・・。」
「どんどん、重くなります。」
「・・・・・・・。」
「どんどん、どんどん、重くなる・・・・。」
「・・・・・・・。」
「・・・もう、支えていられない。」
「う・・・・・。」

 がくっと頭を垂れた悟浄を、冷めた眼で、八戒は見下ろしている。

「悟浄、素直過ぎです。 こんなに簡単に催眠術にかかっちゃうなんて、反則ですよ。」

 これでは、計画を遂行するしかないではないか、と八戒は自分に弁解する。
 ずっと、手順を組み立ててきた。 どのように、事を進めるか。
 悟浄の傍に居て、生涯離れずに済む、『親友』という立場を得るために、八戒が考え付いたのは、悟浄の記憶を変えてしまう、ということだった。
 幸い、二人の事は、限られた人物にしか知られていない。 そこのケアだけ気をつければ良い、と八戒は考えたのだ。
 暗示が上手くかけられるならば、問題は無い筈だ。 予定通りに始めてしまおう、と目を閉じて自身に最終確認し、八戒は口を開いた。

「貴方は、猪八戒を知っていますか?」





 《 To Be Continued For はかりごと。3》





 スミマセン・・・・続きます。 悟浄って、暗示に掛かりやすいんですよね〜vv
 ・・・次回はエゴイスト八戒炸裂です。(笑)




(プラウザを閉じてお戻り下さい)